＜出典＞５５２　　　国定読本　５期５－２
＜Ｐ－００２＞
　目録　＃
一　　明治神宮………四　＃
二　　水兵の母………九　＃
三　　姿なき入城………十五　＃
四　　稻むらの火………二十　＃
五　　朝鮮のゐなか………二十六　＃
六　　月の世界………三十四　＃
七　　柿の色………四十三　＃
八　　初冬二題………四十八　＃
九　　十二月八日………五十二　＃
十　　不沈艦の最期………五十八　＃
＜Ｐ－００３＞
十一　　世界一の織機………七十三　＃
十二　　水師營………八十二　＃
十三　　元日や………九十八　＃
十四　　源氏と平家………九十九　＃
十五　　漢字の音と訓………百十四　＃
十六　　塗り物の話………百十八　＃
十七　　ばらの芽………百二十六　＃
十八　　敵前上陸………百二十八　＃
十九　　病院船………百三十四　＃
二十　　ひとさしの舞………百四十二　＃
附録　一　　土とともに　二　　愛路少年隊　＃
三　　胡同風景　＃
＜Ｐ－００４＞
　一　　明治神宮　＃
　參拜　＃
神宮橋を渡りて、まづ仰ぐ大鳥居に、菊花の御紋章を拜す＃
るかしこさ。南參道に入れば、夜來の雨に清められし玉砂＃
利、さくさくと鳴りて、參拜の人々、あたかもいひ合はせたる＃
ごとく、足並みのおのづからそろふも尊く思はる。御造營＃
當時、國民の眞心もてたてまつりたる木々は、參道の左右を＃
始め、到るところすき間もなき木立となりて、神［しん］域［ゐき］いよいよ＃
嚴かならんとす。＃
＜Ｐ－００５＞
左折して更に大鳥居を過ぎ、神氣身に＃
せまるをおぼえつつ、靜かに歩みを移せ＃
ば、參道はまた右折す。この時、正面やや＃
遠く拜する南神門のけだかさ、美しさ。＃
玉垣に連なる鳥居の奧に、すがすがしき＃
赤松の木立を負ひたる樓［ろう］門［もん］は、一幅の繪＃
畫に似て、しかも尊嚴のおもむきをそへ＃
たり。＃
水屋の水に口すすぎて、この門を入れば、中央の拜殿、左右＃
の廻［くわい］廊［らう］、庭上の白砂、すべて清らかに、嚴かなり。＃
＜Ｐ－００６＞
拜殿に進み、明治天皇・昭憲皇太后御二柱の神の御前に、う＃
やうやしくぬかづく。＃
つつしみて、御在世中の大御歌・御歌をしのびまつれば、　　＃
とこしへに民やすかれといのるなるわがよをまもれ伊［い］＃
勢［せ］のおほかみ　　＃
神風の伊勢の内外の宮柱ゆるぎなき世をなほ祈るかな　　＃
と、神かけて祈らせたまへるを、今とこしへに神［しん］靈［れい］としづま＃
りまして、御みづから世を守り、國をしづめ、民草をもみそな＃
はすらん。大御心のかたじけなさ、そぞろに涙のわき出づ＃
るをおぼゆ。　　＃
＜Ｐ－００７＞
　寶物殿　＃
西神門を出でて行く道は、しばし森林＃
の奧に人をいざなふ。やがて木立遠ざ＃
かりてみどりの芝［しば］生［ふ］遠く廣く續き、道い＃
とはるかなるかなたに、寶物殿を望む。＃
殿内に入りて御遺物を拜觀す。日常＃
の御生活のいかに御儉素にわたらせら＃
れしか。御机は紫［し］檀［たん］にも黒［こく］檀［たん］にもあらずして、ただ黒きぬ＃
り机なり。竹の御硯箱は何のかざりもなく、筆・鉛筆等、國民＃
學校生徒の用ふる物と異なるところなし。昭憲皇太后の＃
＜Ｐ－００８＞
御硯箱は、ふたの裏に石［せき］盤［ばん］をはめ、石筆はちびてわづかに寸＃
餘を殘すのみ。まことにおそれ多＃
き極みといふべし。　　＃
　舊御殿舊御［ぎよ］苑［ゑん］　＃
舊御殿・舊御苑は、もと南豐［と］島［しま］御料＃
地の内にて、御二柱の神に御由［ゆゐ］緒［しよ］深＃
きところ。御殿とは申せど、質素な＃
る平屋にして、行幸ありし時の玉座、＃
今もそのままに拜せらる。＃
舊御苑に入れば、木立深く、道めぐり、池の眺め廣きところ＃
＜Ｐ－００９＞
に、御茶屋ありて隔［かく］雲［うん］亭［てい］といふ。ほのかに承れば、この御苑＃
は、明治天皇御みづから、森の下道・下草まで何くれと御仰せ＃
ありて、自然のままに作らせたまひ、昭憲皇太后かぎりなく＃
めでさせたまひて、しばしば行啓あらせられたりとぞ。昔＃
の武［む］藏［さし］野［の］の面影、そのまま今に殘りて、とこしへに大御心を＃
しのびまつるも、いとかしこしや。　　＃
　二　　水兵の母　＃
明治二十七八年戰役の時であつた。ある日、わが軍艦高［たか］＃
千［ち］穗［ほ］の一水兵が、手紙を讀みながら泣いてゐた。ふと、通り＃
＜Ｐ－０１０＞
かかつたある大尉がこれを見て、餘りにめ＃
めしいふるまひと思つて、＃
「こら、どうした。命が惜しくなつたか。＃
妻子がこひしくなつたか。軍人となつ＃
て、軍に出たのを男子の面目とも思はず、＃
そのありさまは何事だ。兵士の恥は艦＃
の恥、艦の恥は帝國の恥だぞ。」＃
と、ことばするどくしかつた。＃
水兵は驚いて立ちあがりしばらく大尉の顏を見つめて＃
ゐたが、＃
＜Ｐ－０１１＞
「それは餘りなおことばです。＃
私には、妻も子もありません。＃
私も、日本男子です。何で命を＃
惜しみませう。どうぞ、これを＃
ごらんください。」＃
といつて、その手紙をさし出した。＃
大尉がそれを取つて見ると、次＃
のやうなことが書いてあつた。＃
「聞けば、そなたは豐［ほう］島［たう］沖の海戰＃
にも出でず、八月十日の威［ゐ］海［かい］衛［ゑい］攻撃とやらにも、かくべつ＃
＜Ｐ－０１２＞
の働きなかりし由、母はいかにも殘念に思ひ候。何のた＃
めに軍には出で候ぞ。一命を捨てて、君の御恩に報ゆる＃
ためには候はずや。村の方々は、朝に夕に、いろいろとや＃
さしくお世話なしくだされ、一人の子が、御國のため軍に＃
出でしことなれば、定めて不自由なることもあらん。何＃
にてもゑんりよなくいへと、しんせつに仰せくだされ候。＃
母は、その方々の顏を見るごとに、そなたのふがひなきこ＃
とが思ひ出されて、この胸は張りさくるばかりにて候。＃
八［はち］幡［まん］樣に日參致し候も、そなたが、あつぱれなるてがらを＃
立て候やうとの心願に候。母も人間なれば、わが子にく＃
＜Ｐ－０１３＞
しとはつゆ思ひ申さず。いかばかりの思ひにて、この手＃
紙をしたためしか、よくよくお察しくだされたく候。」＃
大尉は、これを讀んで思はず涙を落し、水兵の手をにぎつて、＃
「わたしが惡かつた。おかあさんの心は、感心のほかはな＃
い。おまへの殘念がるのも、もつともだ。しかし、今の戰＃
爭は昔と違つて、一人で進んで功を立てるやうなことは＃
できない。將校も兵士も、皆一つになつて働かなければ＃
ならない。すべて上官の命令を守つて、自分の職務に精＃
を出すのが第一だ。おかあさんは、一命を捨てて君恩に＃
報いよといつてゐられるが、まだその折に出あはないの＃
＜Ｐ－０１４＞
だ。豐島沖の海戰に出なかつたことは、艦中一同殘念に＃
思つてゐる。しかし、これも仕方がない。そのうちに、は＃
なばなしい戰爭もあるだらう。その時には、おたがひに＃
めざましい働きをして、わが高千穗艦の名をあげよう。＃
このわけをよくおかあさんにいつてあげて、安心なさる＃
やうにするがよい。」＃
といひ聞かせた。＃
水兵は、頭をさげて聞いてゐたが、やがて手をあげて敬禮＃
し、につこりと笑つて立ち去つた。　　＃
＜Ｐ－０１５＞
　三　　姿なき入城　＃
いとし子よ、＃
ラングーンは落ちたり。＃
いざ、汝も＃
勇ましく入城せよ、＃
姿なく、＃
聲なき汝なれども。＃
昭和十六年十二月、＃
＜Ｐ－０１６＞
ラングーン第一回の爆撃に、＃
汝は、別動隊編［へん］隊［たい］機長として、＃
近郊ミンガラドン飛行場にせまり、＃
敵スピットファイヤー二十數機と、＃
空中戰はなばなしく、＃
陸［りく］鷲［わし］は、その十六機をほふれり。＃
更にラングーンの上空に現れ、＃
巨［きよ］彈［だん］を投じたる一［いつ］瞬［しゆん］、＃
敵高射砲彈は、＃
汝が愛機の胴體を貫ぬきつ。＃
＜Ｐ－０１７＞
機は、たちまちほのほを吐き、＃
翼は、空中分解を始めぬ。＃
汝、につこりとして天［てん］蓋［がい］を押し開き、＃
二王立ちとなつて僚機に別れを告げ、＃
「天皇陛下萬歳。」を奉唱、＃
若き血潮に、＃
大空の積亂雲をいろどりぬ。＃
それより七十六日、＃
＜Ｐ－０１８＞
汝は、母の心に生きて、＃
今日の入城を待てり。＃
今し、母は齋［さい］壇［だん］をしつらへ、＃
日の丸の小旗二もとをかかげつ。＃
一もとは、すでになき汝の部隊長機へ、＃
一もとは、汝の愛機へ。＃
いざ、親鷲を先頭に、＃
續け、若鷲。＃
ラングーンに花と散りにし汝に、＃
見せばやと思ふ今日の御旗ぞ。＃
＜Ｐ－０１９＞
いとし子よ、＃
汝、ますらをなれば、＃
大君の御［み］楯［たて］と起ちて、＃
たくましく、＃
ををしく生きぬ。＃
いざ、今日よりは＃
母のふところに歸りて、＃
安らかに眠れ、＃
幼かりし時＃
＜Ｐ－０２０＞
わが乳［ち］房［ぶさ］にすがりて、＃
すやすやと眠りしごとく。　　＃
　四　　稻むらの火　＃
「これは、ただごとでない。」＃
とつぶやきながら、五兵衛は家から出て來た。今の地震は、＃
別に激しいといふほどのものではなかつた。しかし、長い、＃
ゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、年取つ＃
た五兵衛に、今まで經驗したことのない、無氣味なものであ＃
つた。＃
＜Ｐ－０２１＞
五兵衛は、自分の家の庭から、心配さうに下の村を見おろ＃
した。村では、豐年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さ＃
つきの地震には、一向氣がつかないもののやうである。＃
村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸ひつ＃
けられてしまつた。風とは反對に、波が沖へ沖へと動いて、＃
見る見る海岸には、廣い砂原や、黒い岩底が現れて來た。＃
「大變だ。津［つ］波［なみ］がやつて來るに違ひない。」と、五兵衛は思つ＃
た。このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一の＃
みにやられてしまふ。もう、一刻もぐづぐづしてはゐられ＃
ない。＃
＜Ｐ－０２２＞
「よし。」＃
と叫んで、家へかけ込んだ五兵衛は、大きなたいまつを持つ＃
てとび出して來た。そこには、取り入れるばかりになつて＃
ゐる、たくさんの稻束が積んである。＃
「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ。」＃
と、五兵衛は、いきなりその稻むらの一つに火を移した。風＃
にあふられて、火の手がぱつとあがつた。一つまた一つ、五＃
兵衛はむちゆうで走つた。かうして、自分の田のすべての＃
稻むらに火をつけてしまふと、たいまつを捨てた。まるで＃
失神したやうに、かれはそこに突つ立つたまま、沖の方を眺＃
＜Ｐ－０２３＞
めてゐた。＃
日はすでに沒して、あたりがだんだん薄暗くなつて來た。＃
稻むらの火は、天をこがした。山寺では、この火を見て早鐘＃
をつき出した。＃
「火事だ。莊［しやう］屋［や］さんの家だ。」＃
と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。續いて、老人も、＃
女も、子どもも、若者のあとを追ふやうにかけ出した。＃
高臺から見おろしてゐる五兵衛の目には、それが蟻［あり］の歩＃
みのやうにもどかしく思はれた。やつと二十人ほどの若＃
者が、かけあがつて來た。かれらは、すぐ火を消しにかから＃
＜Ｐ－０２４＞
うとする。五兵衛は、大聲にいつた。＃
「うつちやつておけ――大變だ。村中の人に來てもらふ＃
んだ。」＃
村中の人は、おひおひ集つて來た。五兵衛は、あとからあ＃
とからのぼつて來る老幼男女を、一人一人數へた。集つて＃
來た人々は、もえてゐる稻むらと五兵衛の顏とを、代る代る＃
見くらべた。＃
その時、五兵衛は、力いつぱいの聲で叫んだ。＃
「見ろ。やつて來たぞ。」＃
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一＃
＜Ｐ－０２５＞
同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。そ＃
の線は、見る見る太くなつた。廣くなつた。非常な速さで＃
押し寄せて來た。＃
「津波だ。」＃
と、だれかが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前にせまつ＃
たと思ふと、山がのしかかつて來たやうな重さと、百雷の一＃
時に落ちたやうなとどろきとで、陸にぶつかつた。人々は、＃
われを忘れて後へとびのいた。雲のやうに山手へ突進し＃
て來た水煙のほかは、一時何物も見えなかつた。＃
人々は、自分らの村の上を荒れくるつて通る、白い、恐しい＃
＜Ｐ－０２６＞
海を見た。二度三度、村の上を、海は進みまた退いた。＃
高臺では、しばらく何の話し聲もなかつた。一同は、波に＃
ゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、ただあきれて＃
見おろしてゐた。＃
稻むらの火は、風にあふられてまたもえあがり、夕やみに＃
包まれたあたりを明かるくした。始めてわれにかへつた＃
村人は、この火によつて救はれたのだと氣がつくと、ただだ＃
まつて、五兵衛の前にひざまづいてしまつた。　　＃
　五　　朝鮮のゐなか　＃
＜Ｐ－０２７＞
　秋　＃
秋の空は、實に高い。さうして色が深い。紺［こん］青［じやう］の大空に＃
は、晝の月がうつすらと出て、日は西へ傾き＃
かけてゐる。もろこしの葉を、かさかさと＃
秋風がゆする。＃
秋の日をまともに受けた駐［ちゆう］在［ざい］所の庭で、＃
一郎と貞［てい］童［どう］が遊んでゐる。貞童が、萩［はぎ］のは＃
うきでとんぼを追ひかけると、とんぼはす＃
いとそれて、豆畠の方へ飛んで行つてしま＃
つた。＃
＜Ｐ－０２８＞
「とんぼ、とんぼ、＃
あつちへ行けば地［ぢ］獄［ごく］、＃
こつちへ來れば極［ごく］樂［らく］。」＃
貞童が歌ふと、一郎は、＃
「反對だ。きみ、とんぼを取るんだらう。」＃
「うん、取るんだ。」＃
「では、こつちへ來れば地獄ぢやないか。」＃
「さういはないと取れないよ。」＃
二人は笑ひながら、豆畠の方へ走つて行く。豆が、かさかさ＃
と音をたてる。＃
＜Ｐ－０２９＞
どの家も、オンドルをたきだしたと見えて、紫色の煙が村＃
中にただよつてゐる。その煙の中に、ぽかりぽかり、わら屋＃
根が浮いて見える。まだ西日を受けてゐる屋根に、干して＃
あるたうがらしが眞赤だ。高くのびたポプラや、茂つたア＃
カシヤは、あざやかな黄色。櫻も紅葉して、みんな赤い夕日＃
を受けてゐる。＃
一郎と貞童は、とんぼ取りをやめて歸つて來た。＃
「生かしておかうや。」＃
貞童は、豆の葉の柄で作つた虫かごに、とんぼを入れた。＃
「動かないよ。」＃
＜Ｐ－０３０＞
二人は、じつととんぼを見てゐる。市場歸りの朝鮮馬が、け＃
たたましく鳴いて過ぎる。夕べの光をかすかに殘した大＃
空を、雁［がん］の群が渡つてゐる。＃
「雁、雁、わたれ。＃
大きな雁はさきに、＃
小さな雁はあとに、＃
仲よくわたれ。」＃
一郎と貞童が、空に向かつて歌つた。　　＃
　冬の夜　＃
夜になつても薄青い空。その空に、星がいつぱいこほり＃
＜Ｐ－０３１＞
ついたやうにして、またたいてゐる。井戸端のうるしの木＃
が、ぬうつと立つてゐる。＃
ぽこん、ぽこんといふ音が通つて行く。水汲みに來た女＃
の頭の上の水がめが、ゆれて鳴る音＃
だ。寒さが骨身にしみて、しいんと＃
する。＃
オンドル部屋の中では、薄暗いラ＃
ンプの火が、心細くゆれてゐる。お＃
ぢいさんが、孫を寢つかせようとし＃
て話をしてゐる。＃
＜Ｐ－０３２＞
「この村に、古いけやきの木があるだらう。おばけが、あの＃
けやきにゐた。」＃
「それがどうしたの。」＃
「そばを通る子どもに、いたづらを＃
した。」＃
「どうして、いたづらをしたの。」＃
「いたづらずきのおばけだからさ。」＃
「どんないたづらをしたの。」＃
おぢいさんは、口をむにやむにやさせて、なかなか答へない。＃
ふくろふの鳴く聲が聞える。＃
＜Ｐ－０３３＞
別な部屋では、息子を相手に、父がかますを織つてゐる。＃
「これが五枚めだつたな。」＃
「はい、五枚めです。」＃
「どうだ、六枚織れるか。」＃
「織りませう、おとうさん。」＃
息子が元氣に答へる。話しながらも、二人の手が器用に動＃
く。そばでは、母が、娘を相手にきぬたを打つてゐる。＃
「これだけ、たたいてしまはう。」＃
母が棒を取つて、とんとひやうしを取つた。とんからとん＃
から、調子のよい音が流れ出した。　　＃
＜Ｐ－０３４＞
　六　　月の世界　＃
　望遠鏡で見た月　＃
「きみ、今夜うちへ來ないか。」＃
學校の門を出ると、正男くんがぼくにかういつた。＃
「どうして。」＃
「にいさんが天體望遠鏡を作つたんだ。」＃
「ほう。」＃
「月がすばらしいよ。よかつたら見に來たまへ。」＃
夕方、まだ明かるい空に、半月が光り始めた。おかあさん＃
＜Ｐ－０３５＞
にさういつて、夕飯がすむとすぐ出かけた。＃
行つてみると、正男くんのうちでは、もう縁先に望遠鏡を＃
すゑつけて、にいさんと正男くんが、代る代る觀測をしてゐ＃
る。長さ一メートルばかりの望遠鏡が、三脚［きやく］の上にのつて＃
ゐる。＃
「りつぱな望遠鏡ですね。」＃
と、ぼくがにいさんにいふと、正男くんは、＃
「これでにいさんのお手製なんだ。見たまへ、筒［つつ］はボール＃
紙だらう。三脚は、やつときのふできあがつた。ぼくも、＃
ずゐぶん手傳つたよ。」＃
＜Ｐ－０３６＞
「レンズは。」＃
「買つたのさ。レンズは、だいぶ上等なんだ。」＃
正男くんは、さも自分で買つたやうな口振りでいふ。にい＃
さんは、初めからにこにこしながらだまつてゐた。＃
「さあ、きみものぞいてごらん。」＃
と、正男くんにいはれて、ぼくは望遠鏡に目を近寄せた。＃
望遠鏡の圓い視野に、月がくつきりと浮き出して見える。＃
それは肉眼で見るのとすつかり感じが違つて、今に露でも＃
したたりさうな、なまなましい、あざやかな美しさである。＃
「きれいだなあ。」＃
＜Ｐ－０３７＞
ぼくが思はず叫ぶと、正男くんが、＃
「きれいだらう。」＃
と、あひづちを打つやうにいふ。だが、よく見ると、月の表面＃
は決してなめらかではない。一面にざらざらしたやうな＃
感じである。殊に、半月のかけた部分に近く、蜂［はち］の巣［す］を思は＃
せるやうなでこぼこが、目立つて見える。＃
「月の顏には、ずゐぶんあばたがあるね。」＃
と、ぼくがいつたので、にいさんも正男くんも、笑つた。＃
それからも、三人代る代るのぞきながら、にいさんからお＃
もしろい説明を聞いた。　　＃
＜Ｐ－０３８＞
　にいさんの説明　＃
あのあばたのやうに見えるのは、大部分が火山で、穴は噴［ふん］＃
火［くわ］口です。こんな小さな望遠鏡でさへ、はつきり見えるの＃
ですから、噴火口は、非常に大きなものだといふことが考へ＃
られます。いちばん大きなの＃
は、直徑が二百キロもあるとい＃
はれてゐます。かうした火山＃
は、どれもこれもけはしくて、低＃
いのでも三百メートル、高いの＃
になると八千メートル――富士山の二倍以上もあるのが＃
＜Ｐ－０３９＞
あります。もちろん、月は地球と違つて、とつくの昔、すつか＃
り冷えてしまつた天體ですから、火山といつても、みんな死＃
火山ですがね。＃
それから、よく見なさい。月の中に薄黒い、大きな斑［はん］點［てん］の＃
やうなものがあるでせう。あれは海といはれる部分です＃
が、月には水が一しづくもありませんから、海といふより、平＃
原といつた方がよいかも知れません。たぶん、昔、このたく＃
さんな火山からふき出した熔［よう］岩［がん］が、流れて固まつたもので＃
せう。＃
月には水がないといひましたが、水ばかりか空氣もない＃
＜Ｐ－０４０＞
のです。したがつて、雲や、雨や、あらしや、さういつた、この地＃
球上に見られる氣象現象は、一つもありません。月は、いつ＃
も晴天なのです。この望遠鏡で見てもわかるやうに、月の＃
どこ一つくもつたところがないのが、その證［しよう］據［こ］です。しか＃
も、空氣も水もないとすると、地球上のやうに、太陽から來る＃
光や熱を調節するものがないから、月の世界では、晝はこげ＃
つくやうな暑さ、夜はその反對に、ひどい寒さであらうと思＃
はれます。＃
まだおもしろいことがあります。かりに、私たちが月の＃
世界へ行つたとすると、そのけしきはどんなものでせう。＃
＜Ｐ－０４１＞
今もいふやうに、光を調節するものがないから、太陽に照ら＃
された部分は、目が痛いほど光つて見えるでせうが、陰にな＃
る部分は、きつと眞黒に見えるに違ひない。ごつごつした＃
火山が、到るところにそびえて、それが眞黒な大空に突つ立＃
つてゐるとしたら、どんなに恐しいけしきでせう。もちろ＃
ん、草も木もありませんよ。その代り、一つうらやましいと＃
思ふのは、月から見た地球の美觀です。地球の直徑は、月の＃
約四倍ありますから、夜、月から地球を見るとすると、われわ＃
れが常に見る月の四倍ぐらゐな地球が、天にかかつて見え＃
るわけです。＃
＜Ｐ－０４２＞
かういふふうに、月の世界は、いはばまつたく恐しい死の＃
世界ですが、それでゐて、昔から月ほどやさしい、平和な氣持＃
を與へてくれるものはありません。その青白い、しみじみ＃
と親しめる光が、われわれに大きな慰めを與へるからです。＃
殊に日本では、昔から月と文學が、まつたく離れられないも＃
のになつてゐます。ごらんなさい、歌でも、俳句でも、詩でも、＃
月に關するものがどんなに多いか。月の世界に都があつ＃
て、そこで天人が舞つてゐるなどは、實に美しい想像ですね。＃
今日私たちは、それが死の世界であると知つても、やはり月＃
がなかつたらさびしい。峯の月、大海原の月、椰［や］子［し］の木かげ＃
＜Ｐ－０４３＞
の月、さういふものがないとしたら、ほとんど生きがひがな＃
いと思ふでせう。月は、永久に人間の心の友であり、慰めで＃
あります。　　＃
　七　　柿の色　＃
かま場より出でし喜［き］三［さ］右［ゑ］衛門［もん］は、しばし縁先にやすらひ＃
ぬ。＃
日は、やや西に傾けり。仰げば庭前の柿の梢は、大空に墨＃
繪をゑがき、すずなりの赤き實、夕日を浴びて、さながら珊［さん］瑚［ご］＃
珠［じゆ］のかがやくに似たり。この美しさに、しばし見とれたる＃
＜Ｐ－０４４＞
喜三右衛門は、ふと何思ひけん、＃
「おお、それよ。」＃
とつぶやきて、直ちにまたかま場へ引＃
き返しぬ。＃
その日より、喜三右衛門は、赤色の燒＃
きつけに熱中し始めたり。されど、め＃
ざす色はたやすく現るべくもあらず、＃
いたづらに燒きてはくだき、くだきて＃
は燒き、はてはただばう然として、歎息するばかりなり。＃
苦心は、それのみにあらざりき。研究に費す金はしだい＃
＜Ｐ－０４５＞
にかさみ、しかも工夫に心をうばはれては、おのづから家業＃
もおろそかならざるを得ず。やがて、その日の生計も立ち＃
がたく、弟子たちこの師を見かぎり去りて、手助けをする者＃
一人もなし。人はこの樣を見て、たはけとあざけり、氣違ひ＃
とののしる。されど、喜三右衛門は、動かざること山のごと＃
く、一念ただ夕日に映ゆる柿の色を求めて止まざりき。＃
かくて數年は過ぎたり。ある日の夕べ、あわただしくか＃
ま場より走り出でたるかれは、＃
「たき木、たき木。」＃
と叫びつつ、手當りしだいに物を運びて、かまの火にことご＃
＜Ｐ－０４６＞
とく投じたり。＃
その夜、喜三右衛門は、かまのかたは＃
らを離れざりき。鷄の聲を聞きては、＃
はや心も心にあらず。かまの周圍を、＃
ぐるぐるとめぐり歩きぬ。＃
夜は、やうやく明けはなれたり。胸＃
ををどらせつつ、やをらかまを開かん＃
とすれば、今しも朝日、はなやかにさし＃
出でて、かま場を照らせり。＃
一つまた一つ、血走る眼に見つめつつ、かまより皿を取り＃
＜Ｐ－０４７＞
出しゐたるかれは、やがて「おお。」と力ある聲に叫びて、立ちあ＃
がりぬ。＃
ああ、多年の苦心は、つひに報いられたり。かれは、一枚の＃
皿を兩手にささげて、しばしかま場にこをどりしぬ。＃
喜三右衛門は、やがて名を柿右衛門と改めたり。＃
柿右衛門は、今より三百餘年前、肥前の有［あり］田［た］に出でし陶工＃
なり。かれは、その後いよいよ研究を重ね、工夫を積みて、つ＃
ひに柿右衛門風と呼ばるる、精巧なる陶器を製作するにい＃
たれり。その作品は、ひとりわが國にもてはやさるるのみ＃
ならず、遠く海外にも傳はりて、名工のほまれはなはだ高し。　　＃
＜Ｐ－０４８＞
　八　　初冬二題　＃
　ゆず　＃
今年も、隣りのゆずが黄ばんだ。＃
かんとさえた冬空、＃
太陽が、まぶしく仰がれる。＃
かさこそと、＃
竹竿であの木の梢をつついてゐた＃
隣りのをぢさんは、今ゐない。＃
＜Ｐ－０４９＞
からたちの垣根越しに、ふとほほ笑んで、＃
「あげようか。」と、投げてくれた＃
をぢさんは、よい人だつた。＃
あの時、ざくつとおや指を皮に突き立てたら、＃
しゆつと、しぶきがほとばしつて、＃
爪［つめ］を黄いろく染めたものだつた。＃
なつかしいゆずのかをり、＃
わたしは、じつと梢を仰ぎ見た、＃
今は部隊長になつて、＃
＜Ｐ－０５０＞
戰地へ行つてゐるをぢさんを思ひながら。　　＃
　朝飯　＃
新づけの白菜、＃
何といふみづみづしさであらう。＃
かめば、さくさくと齒切れよく、＃
朝の氣分を新たにする。＃
父も、母も、兄も、妹も、＃
だまつて箸を動かしてゐる。＃
そろつて健康に働く家族の、＃
＜Ｐ－０５１＞
樂しい朝飯だと思へば、＃
あたたかい御飯の湯氣が、＃
幸福に、私たちの顏を打つ。＃
明けて行く朝、＃
窓ガラス越しに、林が黒い。＃
からからと、どこかで荷車の音。＃
白い御飯から、＃
あたたかいみそ汁から、＃
ほかほかと、立ちのぼる湯氣を見つめながら、＃
＜Ｐ－０５２＞
私は、さくさくと白菜をかむ。　　＃
　九　　十二月八日　＃
昭和十六年のこの日こそ、われわれ＃
日本人が、永久に忘れることのできな＃
い日である。＃
この朝、私は、ラジオのいつもと違つ＃
た聲を聞いた。さうして、＃
「帝國陸海軍は、本八日未明、西太平洋において、米英軍と戰＃
鬪状態に入れり。」＃
＜Ｐ－０５３＞
といふ臨時の知らせを聞いて、はつとした。＃
私は、學校へ急ぎながらも、胸は大波のやうにゆれてゐた。＃
勇ましいやうな、ほこらしいやうな、それでゐて、底の底には、＃
何か不安な氣持があることを知つて、＃
「いつ、米英の飛行機が飛んで來るかも知れないのに、こん＃
なことでどうするか。」＃
と、自分で自分を勵ました。＃
朝禮の時間に、校長先生から、戰爭の始つたことについて＃
お話があつた。＃
「東亞におけるわが國の地位を認めず、どこまでも横車を＃
＜Ｐ－０５４＞
押し通さうとした米國、及び英國に對して、日本は敢然と＃
立ちあがつたのです。いよいよ、來るものが來たのです。＃
私たちは、もうとつくに、覺悟がきまつてゐたはずです。」＃
初冬の澄みきつた日ざしが、運動場を照らし、窓を通して＃
教室にさし込んでゐた。＃
四時間めに、みんなは講堂へ集つた。さうして、その後の＃
やうすをラジオで聞いた。＃
「ハワイ空襲。」とか、「英砲艦撃沈。」とか、「米砲艦捕［ほ］獲［くわく］。」とか、矢つぎ＃
早の勝報である。みんな、胸にこみあげるうれしさを押さ＃
へながら、熱心に聞き入つた。＃
＜Ｐ－０５５＞
お晝過ぎには、おそれ多くも今日おくだしになつた宣戰＃
の大詔が、ラジオを通して奉讀された。君が代の奏樂のの＃
ち、うやうやしく奉讀されるのを、私たちは、かしこまつて聞＃
いた。＃
おことばの一言一句も、聞きもらすまいとした。そのう＃
ちに、私は、目も、心も、熱くなつて行くのを感じた。＃
「天［テン］佑［イウ］ヲ保有シ萬世一系ノ皇［クワウ］祚［ソ］ヲ踐［フ］メル大日本帝國天皇」＃
と仰せられる國がらの尊さ。この天皇の御ためなればこ＃
そ、われわれ國民は、命をささげ奉るのである。さう思つた＃
とたん、私は、もう何もいらないと思つた。さうして、心の底＃
＜Ｐ－０５６＞
にあつた不安は、まるで雲のやうに消え去つてしまつた。＃
「皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ。」＃
と仰せられてゐる。私は、神武天皇の昔、高［たか］倉［くら］下［じ］が神劒を奉＃
り、金のとびが御弓の先に止つたことを思つた。天照大神＃
が、瓊［に］瓊［に］杵［ぎの］尊［みこと］にくだしたまうた神勅を思つた。神樣が、この＃
國土をお生みになつたことを考へた。＃
さうだ。私たち國民は、天皇陛下の大命を奉じて、今こそ＃
新しい國生みのみわざに、はせ參じてゐるのである。勇ま＃
しい皇軍はもとより、國民全體が、一つの火の丸となつて進＃
む時である。私たち少國民も、この光榮ある大きな時代に＃
＜Ｐ－０５７＞
生きてゐるのである。＃
私は、すつかり明かるい心になつて、學校から歸つた。＃
うちでも、母は、ラジオの前で戰況に聞き入つてゐた。＃
「おかあさん、私は、今日ほんたうに日本の國のえらいこと＃
がわかりました。」＃
といふと、母も、＃
「ありがたいおことばを聞いて、まるで天［あめ］の岩戸があけた＃
やうな氣がしますね。さあ、私たちも、しつかりしませう＃
よ。」＃
といつて、目に涙をためながら、じつと私を見つめた。　　＃
＜Ｐ－０５８＞
　十　　不沈艦の最［さい］期［ご］　＃
　一　＃
十二月九日の晝過ぎである。＃
飛行基地の兵舍では、各攻撃隊の指［し］揮［き］官たちが、しきりに＃
作戰をねつてゐる。シンガポール軍港にゐる英國東洋艦＃
隊旗艦プリンス‐オブ‐ウェールズと、戰艦レパルスを、どうし＃
ても撃滅しなければならぬ。だが、敵は軍港深くたてこも＃
つて、出港するけはひがない。いつそのこと、こつちから出＃
かけて行つて、軍港内の主力艦をたたきつけるか。さうだ、＃
＜Ｐ－０５９＞
明日こそ――＃
この時であつた。哨［せう］戒［かい］中のわが潛水＃
艦から、「敵艦發見。」の第一電が來た。一同、＃
思はず總立ちとなつた。＃
「各部隊、直ちに出發用意。」＃
の命令が、八方へ飛ぶ。＃
いよいよ出發といふ時は、日沒までわ＃
づか一時間餘りしかなかつたが、各部隊＃
は、こをどりして基地を飛び立つた。＃
のぼつても、のぼつても、雲である。時＃
＜Ｐ－０６０＞
時、その切れめから海が見える。わが輸送船が、南下して行＃
くのが見えた。雲はますますこくなり、雲の下では、ものす＃
ごくスコールがあばれてゐる。めざす地點に來て、雨をつ＃
いて雲の下へ出てみたが、敵艦の影はなく、やがて夕やみが＃
たちこめて、何物も見ることができなくなつた。＃
「引き返せ。」の命令が出た。むちゆうで飛んで來たのが、歸＃
りとなると足が重い。妙に、つかれたやうな、腹立たしいや＃
うな氣持でいつぱいであつた。　　＃
　二　＃
十日三時四十分、待ちに待つたわが潛水艦から、「敵艦發見。」＃
＜Ｐ－０６１＞
の第二電が來た。今日こそはと、だれの目にも、固い決意が＃
ひらめく。整備員は、燃［ねん］料［れう］積み込みに大わらはである。＃
全員整列。ほんのりと夜のとばりが明けて行かうとす＃
る基地で、出撃の訓示をする司令の目は、ぎらぎらと光つて＃
ゐる。＃
「千［せん］載［ざい］一［いち］遇［ぐう］の好機である。全力をつくせ。」＃
「はい、死んで歸ります。」＃
訓示に答へるやうに、全員のまなざしがかういつてゐる。＃
死といふものが、この時ほど容易で、當然に思はれたことは＃
なかつた。＃
＜Ｐ－０６２＞
今日も雲が多い。まづ偵［てい］察［さつ］機隊が出發し、八時を過ぎて、＃
大編隊は、數隊に分れて次々に南へ飛び立つた。＃
進むに從つて空は明かるく、眼下に點々と、白い斷［だん］雲［うん］がか＃
かる。＃
何時間か飛んで、まさしく潛水艦の報告した地點まで來＃
たには來たが、どこにも敵艦らしいものは見えない。ただ、＃
青い海原が、はてしなく續くだけである。止むなく反轉す＃
る。　　＃
　三　＃
「敵主力艦見ユ。北緯四度、東經百三度五十五分。」＃
＜Ｐ－０６３＞
まさしく、わが偵察機の報告である。＃
反轉しつつあつたわが隊は、この＃
報をとらへて一路機首を北へ向け、＃
めざすクワンタン東方八十キロメ＃
ートルの洋上へ、まつしぐら。＃
續いて、第二報があつた。＃
「敵主力ハ、驅［ク］逐［チク］艦三隻ヨリ成ル直＃
衛ヲ配ス。」＃
機内に、どつと喜びの聲があがる。＃
搭［たふ］乘［じよう］員の目は一つになつて、海の上＃
＜Ｐ－０６４＞
へ燒きつくやうに注がれる。＃
おお、見よ。英國が最新鋭をほこるプリンス‐オブ‐ウェー＃
ルズを一番艦に、レパルスがこれに續き、驅逐艦三隻が先行＃
してゐるではないか。各艦のけたてる眞白な波が、くつき＃
りと目にしみる。　　＃
　四　＃
十二時四十五分、＃
「突つ込め。」＃
の命令である。高度をさげて行くと、敵艦は、いつせいに防＃
空砲火を撃ち出す。すきまもなく炸［さく］裂［れつ］する砲彈を縫［ぬ］つて、＃
＜Ｐ－０６５＞
たちまち爆彈を投下した。大型爆彈が、レパルスに吸ひ込＃
まれるやうに落下すると思ふと、みごとに後部甲［かん］板［ぱん］に命中＃
する。こげ茶色の煙とともに、火［くわ］焔［えん］がぱつともえあがつた。＃
われわれ爆撃機隊は、更に大きく彈幕の中をめぐつて、二＃
度めの爆撃に移る。と、この時、わが雷撃機の第一隊が敢然＃
と現れた。＃
雷撃機隊は、たちまち二隊に分れた。一隊は右からウェ＃
ールズへ他の一隊は左からレパルスへ襲ひかかる。＃
防空砲火は、必死である。ざあつ、ざあつと、スコールのや＃
うに、彈丸の幕が行く手をさへぎる。炸裂する彈の破片が、＃
＜Ｐ－０６６＞
海上一面にしぶきを立ててゐる。＃
まことに死の突撃である。だが、わが機は、まるで演習で＃
もするやうに落ち着いて、極めて正確に次々と襲ひかかつ＃
た。＃
一番機が海面すれすれにおりて發射した魚雷が、みごと＃
にウェールズに命中して、胴體から、マストの二倍ほどある＃
水柱があがつた。と見るまに、機は艦橋をすれすれに飛び＃
越えながら、激しい掃射を浴びせかける。＃
レパルスへ襲ひかかつた一番機の魚雷も、命中する。＃
兩戰艦は、ちやうど大きな鯨［くぢら］がもりを食［く］つてあばれるや＃
＜Ｐ－０６７＞
うにもがきながら、大きく針［しん］路［ろ］を變へた。ウェールズは右＃
へ、レパルスは左へ。＃
すかさず、二番機・三番機が、二艦の針路をねらつて、それぞ＃
れ右から左から魚雷を發射した。＃
ウェールズを襲つた二番機が、魚雷を放つてその右舷前＃
方にさしかかつた時、機はぱつと赤い火を吐きながら、火だ＃
るまになつて自爆した。それと同時に、魚雷はウェールズ＃
の舷側で、みごとに大きな水柱と火焔をあげた。　　＃
　五　＃
第二・第三の雷撃機隊が、次々に現れて攻撃にかかる。深＃
＜Ｐ－０６８＞
手を負つたウェール＃
ズは、見る見る傾き始＃
めた。四十五度まで＃
傾いて、あはや沈むと＃
思ふとたん、ふしぎに＃
もむくむくと起き直＃
つた。さすがに、不沈をほこるだけのねばりがあると思は＃
せる。＃
レパルスは、速力がぐつと落ちてウェールズの後方、二千＃
五百メートルの海上にある。艦はすでに火災を起してゐ＃
＜Ｐ－０６９＞
たが、砲火はほとんど衰へない。襲ひかかるわが一機が、火＃
だるまになる。その自爆と同時に魚雷がレパルスに命中＃
する。續いてまた一機、これも自爆と命中といつしよであ＃
る。それを見るたび、＃
「おのれ。」＃
と、一時に怒りがこみあげる。しかし、それも直ちに消えて、＃
「ああ、りつぱだ。りつぱな最期だ。」＃
といふ感じに變る。直立して、この勇士に別れを告げた。＃
高角砲の目もくらむやうな光の中で、レパルスの水兵が＃
甲板に倒れてゐる姿が、はつきり見えた。わが爆撃機隊の＃
＜Ｐ－０７０＞
掃射を避けるやうに右手で顏をおほつてゐる兵もあつた。＃
大きくめぐつてふり返ると、やがてレパルスの最期が來＃
た。一つ大きくゆれたと見る瞬［しゆん］間［かん］、もくもくと黒煙を殘し＃
ただけで、海中に沈沒した。＃
「やつたぞ。やつたぞ。二番艦が、レパルスが、沈んだぞ。」＃
機内總立ちになり、「萬歳。」を連呼する。この歡喜を胸いつぱ＃
いにいだきながら、われわれ爆撃機隊は、引きあげて行つた。　　＃
　六　＃
わが偵察機は、なほも大空をめぐりながら、旗艦ウェール＃
ズの最期を見とどけた。＃
＜Ｐ－０７１＞
プリンス‐オブ‐ウェールズは、中央と艦尾から煙を吐きな＃
がら、八ノットぐらゐの速力で走つてゐた。船體は、ぐつと＃
左へ傾いてゐる。そのすぐあとから、驅逐艦がついて行く。＃
まもなくウェールズの速力は急に落ちて、ほとんど停止し＃
たかと思はれた。驅逐艦が寄りそふやうに、傾いたウェー＃
ルズにぴたりと横着けになつた。そのとたん、ウェールズ＃
から爆發の一大音響が起り、火焔が太く、大きく立ちあがつ＃
た。續いてもう一度爆發するとともに、不沈艦は、艦尾から＃
するするとマライの海へのまれて行つた。＃
あたり一面油の海に、南の太陽が、きらきらと光つてゐた。　　＃
＜Ｐ－０７２＞
　七　＃
基地へ歸ると、司令は泣いてゐた。大任を果したわれわ＃
れ搭乘員も泣いた。地上勤務の者も泣きながら走り寄つ＃
て、われわれの手をにぎつた。押さへきれない、あらしのや＃
うな感動が、全員の胸を走りまはるのであつた。＃
それから三日め、われわれの一隊は、もう一度あの戰場の＃
上空を飛んだ。直下には、何事もなかつたやうに、青い波頭＃
がかがやいてゐた。この波頭へ向けて、大きな花束を落し＃
た。＃
「敵ながら、最後まで戰ひぬいた數千の靈よ。靜かに眠れ。」＃
＜Ｐ－０７３＞
といふ、われわれの心やりであつた。　　＃
　十一　　世界一の織機　＃
「機ばかりいじつてゐて、をかしなやつだ。男のくせに。」＃
豐［とよ］田［だ］佐吉は、村の人々から、かういつてあざけられた。佐吉＃
は、父の大工の仕事を助けて働いてゐたが、ひまさへあれば、＃
織機のことを調べ續けてゐたのである。＃
「いよいよ、あれは氣違ひだ。」＃
村中にこんなうはさがひろがると、父も、だまつてはゐな＃
かつた。＃
＜Ｐ－０７４＞
「おまへは大工のせがれだ。ほかのことを考へないで、み＃
つしり仕事をやつてくれ。」＃
とさとしたが、佐吉のもえるやうな研究熱は、どうすること＃
もできなかつた。父は、とうとう佐吉をよその大工の家に＃
あづけてしまつた。＃
この間に立つて、佐吉を勵ましたり、慰めたりしてくれた＃
のは、母であつた。佐吉は、「今にきつと成功してみせます。＃
しばらくお許しください。」と、心の中で深く兩親にわびた。＃
佐吉の考へは、かうであつた。人間の衣食住といふもの＃
は、みんな大切なものであるから、布を織る仕事も、決してゆ＃
＜Ｐ－０７５＞
るがせにしてはおかれない。今のやうな仕方では、みんな＃
がきつと困る時が來るに違ひない。それには、どうしても、＃
織機をもつともつと進歩させなければならないといふの＃
である。＃
佐吉が、最初目をつけたのは、布を織る時、たて糸の間を縫＃
つて行くよこ糸であつた。よこ糸は、杼［ひ］によつて、右から左、＃
左から右へと往復するのであるが、これを人の手によらず、＃
機械の力で動かすやうに工夫したかつた。機械で動かせ＃
ば、もつと早く往復するやうな仕組みになるだらう。更に＃
進んでは、ひとりでに、布がずんずん織られて行くやうにも＃
＜Ｐ－０７６＞
なるであらう。次から次へと、佐吉の考へは高まつて行つ＃
たが、わづか小學校を出ただけのかれには、ややもすれば、手＃
のとどきさうもない空想になりがちであつた。＃
たまたま、そのころ東京に博覽會が開かれた。佐吉は上＃
京して、目をかがやかしながら、その機械館へ毎日通つた。＃
銀色に光つたたくさんの機械は、まるで生き物のやうに動＃
いてゐた。かれは、その精巧な機械を見て感心するととも＃
に、何ともいへない肩身のせまい思ひがした。機械は、どれ＃
一つとして、わが日本製のものでなかつたからである。＃
「こんなことでいいのか。日本の將來をどうするのだ。」＃
＜Ｐ－０７７＞
佐吉は、もうじつとしてゐられなくなつた。＃
せめて自分のめざしてゐる織機を仕あげて、いつかは、外＃
國を見返してやらうと固く決心した。＃
それからは、ほとんど晝も夜もなかつた。設計圖を引い＃
ては、組み立てた。組み立てては、それを動かしてみた。だ＃
が、思ふやうに動くものは、なかなか生まれて來なかつた。＃
佐吉は、一軒の納屋に閉ぢこもつて、一心に考へぬき、これな＃
らといふ一臺の織機を作りあげたが、これもまんまと失敗＃
であつた。世間からは、ますます笑はれて、だれ一人相手に＃
さへしなくなる。貧しさは、ひしひしと身にせまつて來る。＃
＜Ｐ－０７８＞
しかし、佐吉は、「このくらゐのことで弱るものか。」と、新しい勇＃
氣をふるつて立ちあがつた。＃
鐵材を使ふことができなかつたために、すべて木材によ＃
つて、こまかなところまで作り直して行つた。今までの失＃
敗の原因を、みんな取り除いて、面目を一新した設計圖がで＃
きあがつた。さつそく、その組み立てに取りかかり、苦心の＃
末、やつと思ひ通りの織機ができあがつた。驗してみると、＃
はたしてよく動いた。＃
この織機を、村の人々の前で、試運轉する日がやつて來た。＃
黒山のやうに集つた人たちは、布をみごとに織つて行くふ＃
＜Ｐ－０７９＞
しぎな機械に目を見張つた。＃
「よくやつた。えらいものだ。」＃
みんなは、かういつてほめたたへた。この日、佐吉の織機＃
を操つて、りつぱに布を織つてみせた人こそ、佐吉の母であ＃
つた。明治二十三年、佐吉が二十四歳の時のことである。＃
翌年、特許を得た。豐田式人力織機は、盛んに國内に使用＃
されるやうになつた。しかも、かれはこれに滿足せず、すぐ＃
動力機械の製造にとりかかつた。人の力から、機械の力に＃
移すといふ、多年の夢［ゆめ］を實現しようといふのである。そこ＃
で、更に七年間の工夫が續けられ、みごと佐吉の自動織機が＃
＜Ｐ－０８０＞
完成された。これが、日本における自動織機の始祖である。＃
明治三十八年は、佐吉にとつて忘れることのできない年＃
である。そのころ、わが國で使はれてゐた外國製の自動織＃
機と、佐吉の自動織機と、どちらがすぐれてゐるかを驗すこ＃
とになつたのが、この年であつた。いはば、日本と外國との＃
腕比べである。英國製のものを五十臺、米國製のものを十＃
臺、佐吉のものを五十臺すゑつけて、一年にわたる嚴しい比＃
較試驗が行はれた。だが、その結果は、惜しいことに佐吉の＃
負けであつた。かれは、愛機の敗因を根氣よく調べ、更に新＃
しい工夫をこらして行つた。＃
＜Ｐ－０８１＞
それから四年め、再び外國製のものと腕比べをする日が＃
來た。努力はつひに報いられ＃
た。何千本といふたて糸のう＃
ち、一本でも切れると織機はお＃
のづから止り、よこ糸がなくな＃
れば、新しい杼が代つてとび出＃
して行くなど、まことに簡にし＃
て巧みなものであつた。機械＃
の取扱ひがたやすく、故障が少＃
く、絶えず正確に動くことにお＃
＜Ｐ－０８２＞
いて、佐吉のものに及ぶものはなかつた。＃
押しも押されもしない「世界一の織機」といふ光榮が、かれ＃
の上にかがやいた。この自動織機の出現によつて、日本は、＃
あつぱれ綿布工業國として、世界に乘り出すやうになつた。＃
何千臺といふ自動織機が勢ぞろひをして、いつせいに活＃
動し、すばらしい速さで織り出す光景は、見るからに壯觀で＃
ある。流れ出る綿布を見てゐると、あたかも豐田佐吉の愛＃
國的熱情が、ほとばしつてゐるやうにさへ感じられる。　　＃
　十二　　水師營　＃
＜Ｐ－０８３＞
明治三十八年一月五日午前十一時――この時刻を以つ＃
て、わが攻圍軍司令官乃［の］木［ぎ］大將と、敵の司令官ステッセル將＃
軍とが會見することになつた。＃
會見所は、旅順から北西四キロばかりの地點、水師營の一＃
民屋である。附近の家屋といふ家屋は、兩軍の砲彈のため＃
に、影も形もなくなつてゐた。この一民屋だけが殘つてゐ＃
たのは、日本軍がここを占領してから、直ちに野戰病院とし＃
て使用し、屋根に大きな赤十字旗をひるがへしてゐたから＃
である。＃
前日、壁に殘つてゐる彈のあとを、ともかくも新聞紙で張＃
＜Ｐ－０８４＞
り、會見室に當てられた部屋には、大きな机を用意し、眞白な＃
布を掛けた。＃
下見分をした乃木將軍は、陣中にふさはしい會見所の情＃
景にほほ笑んだが、壁に張つてある新聞紙に、ふと目を注い＃
で、＃
「あの新聞紙を、白くぬつておくやうに。」＃
といつた。新聞紙は、露軍敗北の記事で滿たされてゐたか＃
らである。＃
さきに一月一日、ステッセル將軍は、わが激しい攻撃に守＃
備しきれなくなつて、つひに旅順開城を申し出て來た。乃＃
＜Ｐ－０８５＞
木將軍はこの旨を大本營に打電し、翌日、兩軍代表は、旅順開＃
城の談判をすましたのであつた。＃
その夜、山［やま］縣［がた］參［さん］謀［ぼう］總長から、次のやうな電報があつた。＃
「敵將ステッセルより開城の申し出でをなしたるおもむ＃
き伏奏せしところ、陛下には、將官ステッセルが祖國のた＃
めに盡くしたる勳［くん］功［こう］をよみしたまひ、武士の名譽を保持＃
せしむることを望ませらる。右つつしんで傳達す。」＃
そこで三日、乃木將軍は、津［つ］野［の］田［だ］參謀に命じて、この聖旨を＃
傳達することにした。命じられた津野田參謀は、二名の部＃
下をつれて、ステッセル將軍のところへ行つた。＃
＜Ｐ－０８６＞
ステッセル將軍は、副官にいひつけて、軍刀と、帽子と、手袋＃
とを持つて來させ、身支度を整へてから不動の姿勢を取つ＃
た。津野田參謀が、御［ご］沙［さ］汰［た］書［しよ］を讀みあげると、副官は、これを＃
ロシヤ語に譯して傳達した。＃
ありがたく拜受したステッセル將軍は、＃
「日本の天皇陛下より、このやうなもつたいないおことば＃
をいただき、この上もない光榮であります。どうぞ、乃木＃
大將にお願ひして、陛下に厚く御禮を申しあげてくださ＃
い。」＃
といつて、うやうやしく擧手の禮をした。乃木將軍が、　　＃
＜Ｐ－０８７＞
たむかひしかたきも今日は大君の惠みの露にうるほひ＃
にけり　　＃
とよんだのは、この時である。＃
四日に、乃木將軍は、ステッセル將軍に、ぶだう酒や、鷄や、白＃
菜などを送りとどけた。長い間篭［ろう］城［じやう］してゐた將士たちに、＃
このおくり物がどれほど喜ばれたことか。＃
會見の當日は、霜［しも］が深かつたが、朝からよく晴れてゐた。＃
十一時十分前に、ステッセル將軍が會見所に着いた。白＃
あし毛の馬に、黒い鞍［くら］を置いて乘つてゐた。その後に、水色＃
の外［ぐわい］套［たう］を着た將校が四騎續いて來た。＃
＜Ｐ－０８８＞
土［ど］塀［べい］で圍まれた會見所に入り、片すみに生えてゐたなつ＃
めの木に、その馬をつないだ。＃
まもなく、乃木將軍も、數名の幕［ばく］僚［れう］＃
とともに到着した。＃
乃木將軍は、黒の上着に白のズボ＃
ン、胸には、金［きん］鵄［し］勳［くん］章［しやう］が掛けられてあ＃
つた。靜かに手をさしのべると、ス＃
テッセル將軍は、その手を堅くにぎ＃
つた。思へば、しのぎをけづつて戰＃
ひぬいた兩將軍である。＃
＜Ｐ－０８９＞
乃木將軍が、＃
「祖國のために戰つては來たが、今開城に當つて閣下と會＃
見することは、喜びにたへません。」＃
とあいさつすると、ステッセル將軍は、＃
「私も、十一箇月の間旅順を守りましたが、つひに開城する＃
ことになり、ここに閣下と親しくおあひするのは、まこと＃
に喜ばしい次第です。」＃
と答へた。一應の儀禮がすむと、一同は机を取り圍んで着＃
席した。＃
ステッセル將軍が、＃
＜Ｐ－０９０＞
「私のいちばん感じたことは、日本の軍人が實に勇ましい＃
ことです。殊に工兵隊が自分の任務を果すまでは、決し＃
て持ち場を離れないえらさに、すつかり感心しました。」＃
といふと、乃木將軍は、＃
「いや、ねばり強いのは、ロシヤ兵です。あれほど守り續け＃
た辛［しん］抱［ばう］強さには、敬服のほかありません。」＃
といふ。＃
「しかし、日本軍の二十八サンチの砲彈には、弱りました。」＃
「あまり旅順の守りが堅いので、あんなものを引つぱり出＃
したのです。」＃
＜Ｐ－０９１＞
「さすがの要［えう］塞［さい］も、あの砲彈にはかなひませんでした。コ＃
ンドラテンコ少將も、あれで戰死をしたのです。」＃
コンドラテンコ少將は、ロシヤ兵から父のやうにしたは＃
れてゐた將軍で、その日もロシヤ皇帝の旨を奉じて、部下の＃
將士を集めて、激勵してゐたさなかであつた。＃
「それに、日本軍の砲撃の仕方が、初めと終りとでは、ずゐぶ＃
ん變つて來ましたね。變つたといふよりは、すばらしい＃
進歩を示しました。たぶん、攻城砲兵司令官が代つたの＃
でせう。」＃
「いいえ、代つてはゐません。初めから終りまで、同じ司令＃
＜Ｐ－０９２＞
官でした。」＃
「同じ人ですか。短期間にあれほど進むとは、實にえらい。＃
さすがは日本人です。」＃
「わが二十八サンチにも驚かれたでせうが、海の魚雷が、山＃
上から泳いで來るのには、面くらひましたよ。」＃
うちとけた兩將軍の話が、次から次へと續いた。やがて＃
ステッセル將軍は、口調を改めて、＃
「承りますと、閣下のお子樣が、二人とも戰死なさつたさう＃
ですが、おきのどくでなりません。深くお察しいたしま＃
す。」＃
＜Ｐ－０９３＞
とていねいに悔みをのべた。＃
「ありがたうございます。長男は南山で、次男は二百三高＃
地で、それぞれ戰死をしました。祖國のために働くこと＃
ができて、私も滿足ですが、あの子どもたちも、さぞ喜んで＃
地下に眠つてゐることでせう。」＃
と、乃木將軍はおだやかに語つた。＃
「閣下は、最愛のお子樣を二人とも失はれて、平氣でいらつ＃
しやる。それどころか、かへつて滿足してゐられる。閣＃
下は、實にりつぱな方です。私などの遠く及ぶところで＃
はありません。」＃
＜Ｐ－０９４＞
それからステッセル將軍は、次のやうなことを申し出た。＃
「私は、馬がすきで、旅順に四頭の馬を飼つてゐます。今日＃
乘つてまゐりました馬＃
も、その中の一頭で、すぐ＃
れたアラビヤ馬です。＃
ついては、今日の記念に、＃
閣下にさしあげたいと＃
思ひます。お受けくだ＃
されば光榮に存じます。」＃
乃木將軍は答へた。＃
＜Ｐ－０９５＞
「閣下の御厚意を感謝いたします。ただ、軍馬も武器の一＃
つですから、私がすぐいただくわけにはいきません。一＃
應軍で受け取つて、その上、正式の手續きをしてからいた＃
だきませう。」＃
「閣下は、私から物をお受けになるのが、おいやなのでせう＃
か。それとも、馬がおきらひなのでせうか。」＃
「いやいや、決してそんなことはありません。私も、馬は大＃
すきです。さきに日［につ］清［しん］戰爭の時、乘つてゐた馬が彈でた＃
ふれ、大變かはいさうに思つたことがあります。今度も、＃
やはり愛馬が彈で戰死しました。閣下から馬をいただ＃
＜Ｐ－０９６＞
けば、いつまでも愛養いたしたいと思ひます。」＃
「あ、さうですか。よくわかりました。」＃
「ときに、ロシヤ軍の戰死者の墓は、あちこちに散在してゐ＃
るやうですが、あれはなるべく一箇所に集めて墓標を立＃
て、わかることなら、將士の氏名や、生まれ故郷も書いてお＃
きたいと思ひますが、それについて何か御希望はありま＃
せんか。」＃
「戰死者のことまで、深いお情をいただきまして、お禮のこ＃
とばもありません。ただ、先ほども申しましたが、コンド＃
ラテンコ少將の墓は、どうか保存していただきたいと思＃
＜Ｐ－０９７＞
ひます。」＃
「承知しました。」＃
やがて用意された晝食が運ばれた。戰陣料理のとぼし＃
いものではあつたが、みんなの談笑で食事はにぎはつた。＃
食後、會見室から中庭へ出て、記念の寫眞を取つた。＃
別れようとした時、ステッセル將軍は愛馬にまたがり、は＃
や足をさせたり、かけ足をさせたりして見せたが、中庭がせ＃
まいので、思ふやうには行かなかつた。＃
やがて、兩將軍は、堅く手をにぎつて、なごりを惜しみなが＃
ら別れを告げた。　　＃
＜Ｐ－０９８＞
　十三　　元日や　＃
元日や一系の天子不［ふ］二［じ］の山　　鳴［めい］雪［せつ］　＃
雪殘る頂一つ國ざかひ　　子［し］規［き］　＃
島々に灯［ひ］をともしけり春の海　　子規　＃
赤い椿白い椿と落ちにけり　　碧［へき］梧［ご］桐［どう］　＃
もらひ來る茶わんの中の金魚かな　　鳴雪　＃
たたかれて晝の蚊［か］を吐く木魚かな　　漱［そう］石［せき］　＃
山門をぎいととざすや秋の暮　　子規　＃
＜Ｐ－０９９＞
　十四　　源氏と平家　＃
　宇［う］治［ぢ］川の先陣　＃
ころは、正月二十日餘りのことなれば、比［ひ］良［ら］の高［たか］嶺［ね］の雪も＃
消え、谷々の氷打ち解けて、川水折ふしかさ増したり。白波＃
みなぎり瀬［せ］は高鳴りて、さか卷く水も速かりけり。夜はす＃
でに明け行けど、川［かは］霧［ぎり］深く立ちこめて、馬の毛も甲の色もさ＃
だかならず。＃
大將軍九郎義［よし］經［つね］、川端に打ち出で、水のおもてを見渡して、＃
人々の心を見んとや思ひけん、＃
＜Ｐ－１００＞
「水の引くをば待つべきか。＃
いかにせん。」＃
といへば、畠山の次郎重［しげ］忠［ただ］、生＃
年二十一になりけるが進み＃
出で、＃
「この川、近［あふ］江［み］の湖［みづうみ］の末にて＃
候へば、待つとも待つとも＃
水ひまじ。重忠、まづ瀬ぶ＃
み仕らん。」＃
とて、五百餘騎ひしひしとく＃
＜Ｐ－１０１＞
つわを並ぶ。＃
ここに平［びやう］等［どう］院のうしとら、橘［たちばな］の小島が崎［さき］より、武者二騎、引＃
つ駈［か］け引つ駈け出で來たり。一騎は梶［かぢ］原［はら］の源太景［かげ］季［すゑ］、一騎＃
は佐々木の四郎高［たか］綱［つな］なり。人目には何とも見えざりけれ＃
ど、内々先を爭ひけん、梶原は、佐々木に四五間ばかり進みた＃
り。佐々木、＃
「いかに梶原殿、この川は西國一の大川ぞや。馬の腹帶の＃
延びて見え候ぞ。しめたまへ。」＃
といひければ、梶原、腹帶解いて引きしむる。佐々木、その間＃
につとはせぬいて、川へさつと打ち入れたり。梶原も續い＃
＜Ｐ－１０２＞
て入る。梶原、＃
「いかに佐々木殿。水の底には大綱あるらん。心得たま＃
へ。」＃
といひければ、佐々木、刀を拔いて馬の足にかかりたる大綱＃
どもを、ふつふつと打ち切り打ち切り、宇治川速しといへど＃
も、生［いけ］食［ずき］といふ日本一の馬に乘りたれば、眞一文字にさつと＃
渡り、向かふの岸に打ちあげたり。梶原が乘りたる磨［する］墨［すみ］は、＃
川中より押し流され、はるかの下より打ちあげたり。＃
佐々木、あぶみふんばり立ちあがり、大音聲あげて、＃
「宇［う］多［だ］天皇九代の後［こう］胤［いん］、近江の國の住人、佐々木の四郎高綱、＃
＜Ｐ－１０３＞
宇治川の先陣ぞや。」＃
と名のりたり。＃
畠山、五百餘騎にて打ち渡る。向かふの岸より敵の放つ＃
矢に、畠山、馬の額を射られ、馬はねあがれば、弓杖ついており＃
立ちたり。岩波さつと押しかかれども、畠山ものともせず、＃
水の底をくぐりて、向かふの岸に着きにけり。打ちあがら＃
んとするところに、後よりむづと引くものあり。「たぞ。」と問＃
へば、「重［しげ］親［ちか］。」と答ふ。＃
「大［おほ］串［ぐし］か。」＃
「さん候。あまりに水が速うて、馬をば川中より押し流さ＃
＜Ｐ－１０４＞
れ、これまでたどり着きて候。」＃
と申す。畠山、＃
「汝がやうなる者は、いつも重忠にこそ助けられんずれ。」＃
といふまま、大串をつかんで岸の上へ投げあげたり。＃
投げあげられて立ちあがり、太刀を拔いて額に當て、大音＃
聲あげて、＃
「武［む］藏［さし］の國の住人、大串の次郎重親、宇治川のかち渡りの先＃
陣ぞや。」＃
と名のりたり。敵もみかたもこれを聞きて、一度にどつと＃
ぞ笑ひける。　　＃
＜Ｐ－１０５＞
　敦［あつ］盛［もり］の最期　＃
さるほどに、熊［くま］谷［がい］の次郎直［なほ］實［ざね］は、「一の谷の軍破れ、平家のき＃
んだち、助け船に乘らんとて、みぎはの方へ落ち行くらん。＃
あつぱれ、よき大將に組まん。」と思ひ、細道にかかりて、みぎは＃
の方へ急ぎ行く。＃
かかるところに、もえぎにほひの甲着て、黄金作りの太刀＃
をはき、連錢あし毛の馬に乘りたる武者一騎、沖なる船をめ＃
がけて、海へさつと打ち入れ、泳がせけり。熊谷、＃
「あれはいかに。よき大將とこそ見まゐらせ候へ。敵に＃
後を見せたまふな。返させたまへ、返させたまへ。」＃
＜Ｐ－１０６＞
と、扇［あふぎ］をあげてさし招く。＃
招かれて取つて返し、みぎはに打ちあが＃
らんとするところに、熊谷、波打際にてむず＃
と組んで、馬よりどうと落ち、取つて押さへ＃
て首を取らんと、かぶとをあふのけて見れ＃
ば、わが子小次郎が年ごろにて十六七ばか＃
り、花のごとき少年なり。熊谷、＃
「そもそも、いかなる人にておはすらん。名のらせたまへ。＃
助けまゐらせん。」＃
と申せば、＃
＜Ｐ－１０７＞
「まづかういふ汝はたぞ。」＃
「ものの數には候はね＃
ど、武藏の國の住人、＃
熊谷の次郎直實。」＃
と名のる。＃
「さては汝のためにはよ＃
き相手ぞ。名のらずとも首を＃
取つて人に問へ。見知りたる者もあ＃
るべし。」＃
といふ。熊谷、＃
＜Ｐ－１０８＞
「あつぱれ、大將かな。この人一人助け奉りたりとも、勝つ＃
べき軍に負くることあらじ。助けまゐらせん。」＃
とて、後をかへりみければ、土肥・梶原五十騎ばかり出で來た＃
り。＃
熊谷、はらはらと涙を流して、＃
「あれ、ごらん候へ。いかにもして助けまゐらせんと思へ＃
ども、みかたの軍兵滿ち滿ちて、よものがし候はじ。同じ＃
くは直實が手にかけ奉つて、のちのとぶらひをも仕らん。」＃
と申せば、＃
「ただいかやうにも。とくとく首を取れ。」＃
＜Ｐ－１０９＞
とぞいひける。＃
熊谷、あまりにいとほしく思ひけれど、さてもあるべきこ＃
とならねば、泣く泣く首を打ちにけり。首を包まんとて、ひ＃
たたれを解きて見れば、錦の袋に入れたる笛を腰に指しゐ＃
たり。＃
「あないとほし。このあかつき、城の内にて管［くわん］絃［げん］したまひ＃
つるは、この人々にておはしけり。やさしかりける人々＃
かな。」＃
とて、これを取つて大將義經の見參に入れたれば、見る人涙＃
を流しけり。＃
＜Ｐ－１１０＞
のちに聞けば、平の經［つね］盛［もり］の子、敦盛とて、生年十七にぞなり＃
にける。　　＃
　能［の］登［との］守［かみ］教［のり］經［つね］　＃
さるほどに、源平のつはもの、壇［だん］の浦［うら］にて攻め戰ふ。＃
能登守教經は、今日を最期とや思ひけん、赤地の錦のひた＃
たれに、唐［から］綾［あや］をどしの甲着て、鍬形打つたるかぶとの緒［を］をし＃
め、いか物作りの太刀をはき、重［しげ］籐［どう］の弓持つて、敵を散々に射＃
れば、源氏のものども多く手を負ひ、射殺さる。矢も皆盡き＃
ければ、大太刀、大［おほ］長［なぎ］刀［なた］を左右に持つて、散々になぎ倒す。＃
新［しん］中［ちゆう］納［な］言［ごん］知［とも］盛［もり］これを見て、教經のもとに使者を立て、＃
＜Ｐ－１１１＞
「いたく罪［つみ］作りたまふな。それらはよき敵かは。」＃
といへば、教經、＃
「さては、大將に組めとや。」＃
とて、敵の船を飛んでまはる。されども義經を見知らざれ＃
ば、甲かぶとのよき武者を、義經かと目をかけてかけまはる。＃
義經、目にたつさまはしたれども、かれこれ行きちがへて、＃
教經に組ませず。されども、いかにしたりけん、義經の船に＃
乘り當り、あはやとばかり飛んでかかれば、義經、長刀をわき＃
にかいはさみ、みかたの船の二丈ばかり離れたるに、ゆらり＃
と飛び移る。＃
＜Ｐ－１１２＞
教經、早わざにはおとりけん、續いても飛び得ず。今はか＃
うと思ひ定め、太刀・長刀も海へ投げ、かぶとも脱いで海へ捨＃
てたり。甲の袖、草ずりもかなぐり捨て、胴ばかり着て、大手＃
をひろげて船の屋形に立ち出で、大音聲あげて、＃
「源氏の方にわれと思はん者あらば、教經組んで生け捕り＃
にせよ。寄れや、寄れ。」＃
といひけれども、寄る者一人もなかりけり。＃
ここに土佐の國の住人、安［あ］藝［き］の太郎實［さね］光［みつ］とて、およそ二三＃
十人が力ある大力の者、おのれにおとらぬ家來一人ともな＃
ひたり。弟の次郎も、すぐれたるつはものなり。かれら三＃
＜Ｐ－１１３＞
人寄り合ひて、＃
「能登殿いかに強くおはすとも、何ほどのことかあるべき。＃
たとへ鬼神なりとも、われら三人がつかみかからば、など＃
か勝たざるべき。」＃
とて、小舟に乘り、教經の船に並べて乘り移り、太刀先そろへ＃
て一時に打つてかかる。＃
教經これを見て、まづ眞先に進みたる安藝の太郎が家來＃
を、どうとけて海へ落す。續いてかかる安藝の太郎を、左の＃
わきにさしはさみ、弟の次郎を、右のわきに取つてはさみ、一＃
しめしめて、＃
＜Ｐ－１１４＞
「いざ、おのれら、死出の旅の供せよ。」＃
とて、生年二十六にて、海へつつとぞ入りにける。　　＃
　十五　　漢字の音と訓　＃
私たちは、毎日、本や、新聞や、雜［ざつ］誌［し］を讀んでゐます。時には＃
綴り方や、手紙を書きます。かうして讀んだり書いたりす＃
る文章は、漢字とかなで書き表されます。＃
かなは、だいたいきまつた音で讀みますが、漢字にはいろ＃
いろな讀み方があります。例へば、「國民學校」の「國」「民」とい＃
ふ漢字は、「こく」「みん」と讀むほかに、「くに」「たみ」とも讀みま＃
＜Ｐ－１１５＞
す。「こく」「みん」といふ讀み方は、漢字本來の發音で、これを＃
漢字の音といひます。「くに」「たみ」は、漢字の訓と呼ばれる＃
ものですが、これこそわが國の昔からのことばで、それを漢＃
字に當てて讀んだものです。＃
「國」「民」「年」「島」など、そのほか大部分の漢字は一つの音で讀＃
みますが、「木刀」「木目」の「木」は、「ぼく」とも、「もく」とも讀みます。＃
また「銀行」「行列」の「行」は、「かう」「ぎやう」などと讀み、「宮城」「神宮」＃
「宮内省」の「宮」は、「きゆう」「ぐう」「く」などいろいろの音で讀みま＃
す。これは、もともと支那各地で、いろいろな音が行はれて＃
ゐたのが、自然わが國へもはいつて、それぞれの讀みならは＃
＜Ｐ－１１６＞
しとなつたのです。＃
「國」「民」「靴」「杖」などの訓は、一つですが、「生まれる」「生える」「生＃
きる」「生る」のやうに、「生」を「うまれる」「はえる」「いきる」「なる」と、い＃
ろいろに讀みます。これは、「うまれる」「はえる」「いきる」「なる」＃
といつたわが國のことばを、漢字の「生」に當てて讀んだもの＃
で、それらの讀み方が、自然「生」の字の訓となつたのです。こ＃
のやうに、訓にも、音のやうに二つ以上ある場合があります。＃
音と訓を持つた漢字を、二字以上組み合はせて、ことばが＃
書き表された場合には、どの漢字もすべて音で讀むか、また＃
は訓で讀むのが普通です。「先生」「遠足」「飛行機」「高射砲」など＃
＜Ｐ－１１７＞
は、音ばかりで讀む例で、「神樣」「笑顏」「物干竿」などは、訓ばかり＃
で讀む場合です。＃
ところで、「山川」「父母」のやうに、「さんせん」「ふぼ」、あるひは「や＃
まかは」「ちちはは」と、音でも訓でも讀める場合があります。＃
また、ことばによつては、「重箱」「記念日」のやうに、上を音、下を＃
訓で讀んだり、「手本」「道順」のやうに、上を訓、下を音で讀んだ＃
りする場合も、まれにはあります。＃
漢字には、このやうに音と訓があり、中には、音訓にいろい＃
ろ種類があつて、意味の違ひや、文のおもしろみを出してゐ＃
るのです。漢字を音で讀むか訓で讀むか、どの音で讀み、ど＃
＜Ｐ－１１８＞
の訓で讀むかは、すべて、讀みならはしによつてきまるので＃
す。殊に、人の姓名や、地名などには、おのおの特別な讀み方＃
があります。＃
私たちが漢字を讀む時には、このやうにいろいろな漢字＃
の音と訓とに注意して、その場合に應じた、正しい讀み方を＃
するやうにしなければなりません。　　＃
　十六　　塗り物の話　＃
「工場を見せていただきたいのですが。」＃
「さあ、どうぞこちらへおいでください。」＃
＜Ｐ－１１９＞
主人に案内された塗り物の工場は、薄暗い土藏の中である。＃
障子をもれて來る窓際の明かりで、職人が、白木の盆［ぼん］のとこ＃
ろどころへ、黒い、やはらかな膏［かう］藥［やく］のやうなものを、細い竹べ＃
らでつめてゐる。＃
「何をつめてゐるのですか。」＃
「こくそといふものですよ。米の粉と、おがくづとを、漆［うるし］で＃
ねり合はせたもので、木地に、すき間や、きずをなくすため＃
に、かうしてつめてゐるのです。」＃
左手で、盆をくるくるまはしながら、熟練した手早さで、職人＃
は、一つ一つのすき間へ、こくそをつめて行く。＃
＜Ｐ－１２０＞
次の部屋へはいると、こくそをつめた白木の盆が、うづ高＃
く積んである。そのかげで、職人の手が動いてゐる。その＃
手は、盆を一枚一枚、はけでさび色に塗つて行く。＃
「これはさび漆といふものです。さび土と漆と、まぜ合は＃
せて作つたものです。さび土は、その土地特有のもので、＃
これがなかなか塗り物には大切なものです。」＃
職人は、話しながらも、仕事の手はちつともゆるめない。＃
急な階段をのぼつて二階へ行くと、そこにも、だまつて塗＃
り物を塗つてゐる人たちがゐた。＃
この人たちは、下塗りのできた盆の内側へ、黒い漆を塗つ＃
＜Ｐ－１２１＞
て行く。さうして、時々、くじやくの羽で穗先を作つた細い＃
筆で、漆にまじつたごみを取つて＃
ゐる。＃
「下塗りは下の部屋でしますが、＃
中塗りと上塗りは、二階の方が＃
いいのです。塗り物には、ほこ＃
りが禁物ですから。」＃
主人の話は、中塗りのことになる。＃
「下塗りができあがると、その上＃
へ、このやうに中塗りをします。＃
＜Ｐ－１２２＞
盆のやうに簡單なものでも、表と裏と同時に塗ることは＃
できません。まづ、このやうに内側を塗つて、それを乾か＃
してから外側を塗るのです。なかなか手數のかかる仕＃
事です。」＃
さういへば、そばに積まれた中塗りの盆は、内側ばかりが塗＃
つてあつて、外側はまださび色のままである。＃
「このまま自然に乾かすのですか。」＃
「いや、さうたやすくはいきません。この室［むろ］の中をごらん＃
なさい。」＃
といひながら、主人は戸を開いた。上下二段にわかれた戸＃
＜Ｐ－１２３＞
だなで、中にはわくが仕掛けてある。＃
「このわくへ、塗つた物をはさみます。わくは心棒で支へ、＃
時計仕掛で靜かに回轉させながら、漆がまんべんなく行＃
き渡るやうにして乾かします。この時計仕掛が發明さ＃
れない前は、夜中でも起きて、心棒を手でまはさなければ＃
ならなかつたのです。」＃
なるほど、室の横側には、重い分［ふん］銅［どう］のついた仕掛があつて、時＃
計が時を刻むのと同じやうに、目に見えないくらゐゆつく＃
りした動きで、わくが回轉してゐる。＃
「漆はよく天氣を知つてゐて、雨か晴かは、その乾き具合で＃
＜Ｐ－１２４＞
すぐわかるほどです。漆が乾く時には水分を吸收しま＃
すが、乾いてしまつたら水分を受けつけません。乾かさ＃
うと思へば、半日ぐらゐでも乾きますが、早く乾かし過ぎ＃
ると、あとでちぢんで、しわができたり、干割れがしたりし＃
ます。だから、夏でも冬でも、できるだけ温度と濕［しつ］度［ど］に變＃
りのない土藏が選ばれ、更に、室の中で乾かす必要がある＃
のです。」＃
主人の話に感心しながら、上塗りの部屋へはいる。＃
下塗りと中塗りができた上へ、上漆をかけて最後の仕あ＃
げをする仕方は、中塗りと同［どう］樣［やう］で、ここでも同じやうな工程＃
＜Ｐ－１２５＞
がくり返されてゐる。＃
「これで、一通り工場の御案内は終りました。これから、製＃
品陳［ちん］列［れつ］室で、できあがつた品物を見ていただきたいと思＃
ひます。」＃
さて、みなさん。私は陳列室へはいつて、いろいろな塗り＃
物の並んでゐるのを見ましたが、みなさんの周圍には、どん＃
な塗り物があるか氣をつけてごらんなさい。さうして、そ＃
れらが一つ一つ、このやうにしてできあがつたのだといふ＃
ことを、よく考へてください。　　＃
＜Ｐ－１２６＞
　十七　　ばらの芽　＃
正岡子［し］規［き］　＃
くれなゐの二尺のびたるばらの芽の針やはらかに春雨＃
の降る　＃
松の葉の葉ごとにむすぶ白露のおきてはこぼれこぼれ＃
てはおく　＃
島木赤［あか］彦［ひこ］　＃
雪降れば山よりくだる小鳥多し障子のそとにひねもす＃
聞ゆ　＃
＜Ｐ－１２７＞
若山牧［ぼく］水［すゐ］　＃
土ぼこりうづまき立つや十あまり荷馬車すぎ行く夏草＃
の野路に　＃
伊［い］藤［とう］左［さ］千［ち］夫［を］　＃
汽車の來る重き力の地ひびきに家［や］鳴［な］りとよもす秋の晝＃
すぎ　＃
おとろへし蝿［はへ］の一つが力なく障子にはひて日はしづか＃
なり　＃
國こぞり心ひとつとふるひ立ついくさの前に火も水も＃
なし　＃
＜Ｐ－１２８＞
　十八　　敵前上陸　＃
わが輸送船團は、マライ半島のコタバ＃
ルをめざして進んで行つた。＃
折惡しく月明かりだつたので、海岸を＃
防備する敵軍は、いち早くわが船團の近＃
づくのを感知した。上陸開始後、まもな＃
く海岸一帶の敵陣から、雨のやうな猛射＃
を浴びせて來る。＃
爆彈をかかへた敵の飛行機は、輸送船團の頭上から襲ひ＃
＜Ｐ－１２９＞
かかつた。轟［ぐわう］然［ぜん］、天地をゆするやうな音響とともに、黒煙は＃
天に立ちのぼつた。わが輸送船の一隻が、敵彈のため火を＃
發したのであつた。＃
兵士は、銃を持つたまま、みんな水中へをどり込んだ。敵＃
の戰鬪機の群が、海面すれすれに、惡［あく］魔［ま］のやうな翼をひるが＃
へして、掃射する。護衛の驅逐艦からも、輸送船からも、波間＃
に浮かぶ舟艇からも、兵士が齒を食［く］ひしばつて應戰する。＃
一機また一機、黒い翼がぱつと紅の火［くわ］焔［えん］を吐いて、まつさか＃
さまに海中へ突つ込んで行く。＃
海岸からの敵の銃砲火は、ますます烈しさを加へて來た。＃
＜Ｐ－１３０＞
泳いでゐる兵士の鐵かぶとが、沈むかと思ふとまた浮かぶ。＃
さうして、口から鼻から、白い水を吐き出す。輸送船からは、＃
船員たちが、銃をはなせと聲をかぎりに叫び續ける。しか＃
し海岸へ泳ぎ着いた兵士で、だれ一人銃をはなした者はな＃
かつた。＃
海岸へたどり着くと、目の前に屋根形に張られた鐵條網＃
が、行く手をさへぎつてゐる。その後には、とげのある鐵線＃
が張りめぐらされ、更にその後には、屋根型の鐵條網が、嚴重＃
に設けられてゐる。そこから五十メートルほど後の方に＃
は、帶のやうな塹［ざん］壕［がう］と、椰［や］子［し］の木かげに見えがくれする灰色＃
＜Ｐ－１３１＞
のトーチカが築かれてゐて、あらしのやうに撃ちまくつて＃
來る。＃
ぬれねずみの姿で海岸へはひあがつた兵士の身を、かく＃
す物は何一つない。彈丸の夕立の中で、波打際に突つ伏し＃
たまま、兵士は身動きもしない。かれらは、兩手をそろへて＃
海岸の砂をほつた。そのくぼみに頭をかくし、肩をかくし、＃
全身を埋めた。砂の上には、銃劒だけが殘つてゐる。兵士＃
は、もぐらのやうに全身を砂に埋めて、十センチ、二十センチ＃
と進んで行く。ぎらぎらと太陽の光を反射させながら、鐵＃
かぶとが銃劒を引きずつて動いて行く。砂の上を、ひとり＃
＜Ｐ－１３２＞
でにすべつて行く、ふしぎな銃劒である。＃
鐵條網が、手のとどくところにせまつた。突然、網を切る＃
はさみを持つてゐる兵士が一人、むつくりと起きあがつて、＃
敵陣地へ突進する。そのとたん、天地にとどろくやうな爆＃
音といつしよに、砂煙が、あたりをおほひ包んだ。＃
「地雷だ、氣をつけろ。」＃
部隊長のするどい叫びが傳はつた。その聲の終らないう＃
ちに、またしても、續けざまに二つの轟音がとどろいた。も＃
のすごい砂つぶてが、うつ伏した兵士たちの全身をなぐり＃
つけた。＃
＜Ｐ－１３３＞
「その場を動くな。」＃
部隊長の太い聲だ。＃
兵士は、はさみを手に手に持つて、次々に鐵條網へいどみ＃
かかつた。この瞬［しゆん］間［かん］であつた。一つ、二つ、三つと、鐵條網の＃
向かふ側に、砂を盛りあげながら、もぐらのやうに進む皇軍＃
の鐵かぶとの列が見られた。兵士たちは、鐵條網の下をほ＃
つて、もぐつて、くぐり拔けたのだ。兵士たちは、砂の底で、砂＃
といつしよに堅く銃身をにぎりしめた。＃
「ダーン。」と音をたてて、敵の砲彈が兵士の目の前で炸［さく］裂［れつ］し、＃
あたり一面に、砂ぼこりがたちこめた。兵士は、「わあつ。」とと＃
＜Ｐ－１３４＞
きの聲をあげ、砂をけ立てて、いつせいに立ちあがつた。＃
突撃だ。第一線の鐵條網を破つてからは、とげのある鐵＃
條網も、屋根型の鐵條網も、まるで枯れ木のやうにもろかつ＃
た。砂にまみれ、血にまみれて突き進む皇軍將士の前には、＃
塹壕も、トーチカも、敵兵も、何もなかつた。　　＃
　十九　　病院船　＃
　星の夜　＃
病室の患［くわん］者［じや］は、よく寢靜まつてゐます。だまつて椅［い］子［す］に＃
腰をおろしてゐると、機關の響きと震動が、からだに傳はつ＃
＜Ｐ－１３５＞
て來ます。＃
少し氣分が惡いので、水で顏を洗つて＃
から、病室の中をまはりました。毛布を＃
脱いでゐる人に、そつと掛けてあげる。＃
いびきをたててゐる人、齒ぎしりをして＃
ゐる人、さうした人々の目をさますまい＃
と、氣をつけて靜かに歩いてゐるのです＃
が、そばへ行くと、ぱつちり目をあける人＃
があつて、時々はつとします。＃
熱の高い患者の氷が解けてゐるので、冷藏庫から氷を持＃
＜Ｐ－１３６＞
つて來て、みかんの小箱の中でくだきました。三本足の錐［きり］＃
であつたのが、二本は折れて一本足になつてゐるので、なか＃
なかくだけません。患者が目をさましさうなので、私は、箱＃
をかかへて甲［かん］板［ぱん］へ出ました。＃
深夜の空には、ちりばめたやうに星がかがやいて、船は、黒＃
い漆［うるし］を流したやうな海原をけつて進んでゐます。強い潮＃
風が一時に吹きつけて來て、氣分の惡いのも、眠いのも、さら＃
つて行つてしまひました。　　＃
　おかあさん　＃
船は、かなりひどく搖れだしました。今まで、船よひに苦＃
＜Ｐ－１３７＞
しんだことのなかつた私は、船の勤めは話に聞くほど苦し＃
いものでないと思つてゐましたが、今度は、いよいよやつて＃
來たやうです。でも、これくらゐの波に負けるものかと、と＃
もすればころがりさうになるからだを、はめ板や、手すりに＃
つかまつて支へながら、働きました。患者は半數ぐらゐよ＃
つて、ところどころに置いてある吸ひがら入れに、吐く音が＃
聞えます。機關の響きのほかに、船腹に當る波の音がもの＃
すごく聞え、船内は、何だかさうざうしく、落ち着かなくなつ＃
て來ました。よつてはならないと、絶えず思ひ續けて胸を＃
なでおろしてゐないと、つひ患者といつしよになつて、吐い＃
＜Ｐ－１３８＞
てしまひさうです。＃
夕方になると、海はますますしけて來て、波や風の音が、惡［あく］＃
魔［ま］の叫びのやうに、氣味惡くなつて來ました。重い患者に＃
は、船の動搖が禁物です。收容する時には、さほどとも思は＃
なかつた一人の患者が、船が搖れだしてから急に惡くなつ＃
て、全身に冷汗が流れ、目のまはりに黒いかげができて、目の＃
光もにぶくなつてしまひました。私は、注射をして脈に注＃
意してゐましたが、やがて呼吸が不正になり、脈がかすかに＃
なつたので、軍醫殿に知らせました。＃
軍醫殿は、すぐ來られましたが、患者はもう口をきく力も＃
＜Ｐ－１３９＞
ありません。ふいてもふいても、全身から汗がにじみ出ま＃
す。おほひかぶさつて來る黒いかげでも、拂ひのけようと＃
するやうにもがいてゐるのが、患者の何でもない身振りに＃
も、うかがはれます。ひとしきり、重い靜けさが續きました＃
が、やがて、＃
「おかあさん。」＃
と、かすかな叫びが聞かれました。滿身の力をこめて、出し＃
たことばでありませう。それと同時に、全身の氣力は、なく＃
なつてしまひました。＃
何萬の敵をものともせず、戰ひぬいたこの勇士の頭に、最＃
＜Ｐ－１４０＞
後にひらめいたのが、二十何年いつくしみ育ててくれた、尊＃
い母の姿であつたのでせう。　　＃
　あらし　＃
宵［よひ］番［ばん］の人が起しに來た聲を聞いて、早く白衣に着かへて、＃
病室へ行かなければと思ひながら、どんなにもがいても、ど＃
うしたことか、からだがききません。海は、ますます荒れて＃
ゐるやうです。よろめきながら、やうやくのびあがつて、衣＃
紋掛から白衣を取りはづすと、またへなへなと、寢床に、から＃
だがたたまつてしまひました。靴下は、横になつたままで、＃
どうにかはきました。＃
＜Ｐ－１４１＞
「しつかりしろ。しつかりしろ。」＃
と、だれかが耳もとでささやくやうですが、だれもゐるので＃
はありません。とたんに、私の頭の中には、病室で苦しんで＃
ゐる患者の顏が浮かんで來ました。＃
「さうだ。これくらゐのことで――かぎりある身の力た＃
めさん。」＃
私のからだは、すつくと立ちあがつて、白衣を着てゐました。＃
内地に着きさへすれば、完全な治療をする病院が、この勇＃
士の患者たちを待つてゐる。それまでの間、どうとでもし＃
て看護の手を盡くし、無事に送り屆けてあげなければ――＃
＜Ｐ－１４２＞
かう思つた私は、もう船の動搖にもよろめかない足取りで、＃
病室へ向かつてゐました。　　＃
　二十　　ひとさしの舞　＃
　一　＃
高松の城主清［し］水［みづ］宗［むね］治［はる］は、急いで天守閣へのぼつた。＃
見渡すと、廣い城下町のたんぼへ、濁［だく］流［りう］がものすごい勢で＃
流れ込んで來る。＃
「とうとう、水攻めにするつもりだな。」＃
この水ならば、平地に築かれた高松城が水びたしになる＃
＜Ｐ－１４３＞
のも、間はあるまい。押し寄せて來る波を見ながら、宗治は、＃
主家毛利輝［てる］元［もと］を案じた。この城が落ちれば、羽［は］柴［しば］秀［ひで］吉［よし］の軍＃
は、直ちに毛利方を攻めるに違ひない。＃
主家を守るべき七城のうち、六城がすでに落ちてしまつ＃
た今、せめてこの城だけでも、持ちこたへなければならない＃
と思つた。＃
宗治は、城下にたてこもつてゐる五千の生命をも考へた。＃
自分と生死を共にするといつてゐるとはいへ、この水で見＃
殺しにすることはできない。中には、女も子どももゐる。＃
このまま、じつとしてはゐられないと思つた。＃
＜Ｐ－１４４＞
軍勢には、ちつとも驚かない宗治も、この水勢には、はたと＃
困つてしまつた。　　＃
　二　＃
さきに、羽柴秀吉と軍を交へるにあたり、輝元のをぢ小早＃
川隆［たか］景［かげ］は、七城の城主を集めて、＃
「この際、秀吉にくみして身を立てようと思ふ者があつた＃
ら、すぐに行くがよい。どうだ。」＃
とたづねたことがあつた。その時、七人の城主は、いづれも、＃
「これは意外のおことば。私どもは、一命をささげて國境＃
を守る決心でございます。」＃
＜Ｐ－１４５＞
と誓つた。隆景は喜んで、それぞれ刀を與へた。宗治は、＃
「この刀は、國境の固め。かなはぬ時は、城を枕に討死せよ＃
といふお心と思ひます。」＃
と、きつぱりといつた。＃
更に秀吉から、備［びつ］中［ちゆう］・備［びん］後［ご］の二箇國を與へるから、みかたに＃
なつてくれないかとすすめられた時、宗治が、＃
「だれが二君に仕へるものか。」＃
と、しかりつけるやうにいつたこともあつた。＃
かうした宗治の態度に、秀吉はいよいよ怒つて、軍勢をさ＃
し向けたのであるが、智勇すぐれた城主、これに從ふ五千の＃
＜Ｐ－１４６＞
將士、たやすくは落ちるはずがなかつた。＃
すると、秀吉に、高松城水攻めの計を申し出た者があつた＃
ので、秀吉はさつそくこれを用ひみづから堤防工事の指圖＃
をした。夜を日に繼いでの仕事に、さしもの大堤防も、日な＃
らずしてできあがつた。＃
折から降り續く梅雨のために、城近く流れてゐる足［あ］守［もり］川＃
は、長［なが］良［ら］川の水を集めてあふれるばかりであつた。それを＃
一氣に流し込んだのであるから、城の周圍のたんぼは、たち＃
まち湖のやうになつた。　　＃
　三　＃
＜Ｐ－１４７＞
毛利方は、高松城の危いことを知り、二萬の援軍を送つて＃
よこした。兩軍は、足守川をさしはさんで對陣した。＃
その間にも、水かさはずんずん増して、城の石垣はすでに＃
水に沒した。援軍から使者が來て、＃
「一時、秀吉の軍に降り、時機を待て。」＃
といふことであつたが、そんなことに應じるやうな宗治で＃
はない。宗治は、あくまでも戰ひぬく決心であつた。＃
そこへ、織［お］田［だ］信［のぶ］長［なが］が三萬五千の大軍を引きつれて、攻めて＃
來るといふ知らせがあつた。輝元はこれを聞き、和［わ］睦［ぼく］をし＃
て宗治らを救はうと思つた。安國寺の僧惠［ゑ］瓊［けい］を招き、秀吉＃
＜Ｐ－１４８＞
方にその意を傳へた。和睦の條件として、毛利方の領地、備＃
中・備後・美［みま］作［さか］・因［いな］幡［ば］・伯［はう］耆［き］の五箇國をゆづらうと申し出た。＃
秀吉は、承知しなかつた。すると意外にも、信長は本［ほん］能［のう］寺＃
の變にあつた。これには、さすがの秀吉も驚いた。さうし＃
て惠瓊に、＃
「もし今日中に和睦するなら、城兵の命は、宗治の首に代へ＃
て助けよう。」＃
といつた。＃
宗治はこれを聞いて、＃
「自分一人が承知すれば、主家は安全、五千の命は助る。」＃
＜Ｐ－１４９＞
と思つた。＃
「よろしい。明日、私の首を進ぜよう。」＃
と宗治は答へた。　　＃
　四　＃
宗治には、向井治［はる］嘉［よし］といふ老臣があつた。その日の夕方、＃
使者を以つて、＃
「申しあげたいことがあります。恐れ入りますが、ぜひお＃
いでを。」＃
といつて來た。宗治がたづねて行くと、治嘉は喜んで迎へ＃
ながら、かういつた。＃
＜Ｐ－１５０＞
「明日御切腹なさる由、定めて秀吉方から檢使が參るでご＃
ざいませう。どうぞりつぱに最期をおかざりください。＃
私は、お先に切腹をいたしました。決してむづかしいも＃
のではございません。」＃
腹卷を取ると、治嘉の腹は、眞一文字にかき切られてゐた。＃
「かたじけない。おまへには、決して犬死をさせないぞ。」＃
といつて、涙ながらに介［かい］錯［しやく］をしてやつた。＃
その夜、宗治は髮を結ひ直した。靜かに筆を取つて、城中＃
のあと始末を一々書き記した。　　＃
　五　＃
＜Ｐ－１５１＞
いつのまにか、夜は明けはなれて＃
ゐた。＃
身を清め、姿を正した宗治は、巳［み］の＃
刻を期して、城をあとに、秀吉の本陣＃
へ向かつて舟をこぎ出した。五人＃
の部下が、これに從つた。＃
向かふからも、檢使の舟がやつて＃
來た。＃
二さうの舟は、靜かに近づいて、滿＃
滿とたたへた水の上に、舷［ふなばた］を並べた。＃
＜Ｐ－１５２＞
「お役目ごくらうでした。」＃
「時をたがへずおいでになり、御殊勝に存じます。」＃
宗治と檢使とは、ことばずくなに挨［あい］拶［さつ］を取りかはした。＃
「長い篭［ろう］城［じやう］に、さぞお氣づかれのことでせう。せめてもの＃
お慰みと思ひまして。」＃
といつて、檢使は、酒さかなを宗治に供へた。＃
「これはこれは、思ひがけないお志。ゑんりよなくいただ＃
きませう。」＃
主從六人、心おきなく酒もりをした。やがて宗治は、＃
「この世のなごりに、ひとさし舞ひませう。」＃
＜Ｐ－１５３＞
といひながら、立ちあがつた。さうして、おもむろに誓［せい］願［ぐわん］寺［じ］＃
の曲［くせ］舞［まひ］を歌つて、舞ひ始めた。五人も、これに和した。美し＃
くも、嚴かな舞ひ納めであつた。＃
舞が終ると、　　＃
浮世をば今こそわたれもののふの名を高松の苔［こけ］にのこ＃
して　　＃
と辭世の歌を殘して、みごとに切腹をした。五人の者も、皆＃
そのあとを追つた。＃
檢使は、宗治の首を持ち歸つた。秀吉は、それを上座にす＃
ゑて、「あつぱれ武士の手本。」といつてほめそやした。　　＃
＜Ｐ－２０１＞
　附録　＃
　一　　土とともに　＃
　ひでり　＃
今年は、ひでりだ。張［ちやう］は、うらめしさうに天を仰いだ。もう、何度＃
雨ごひをしたか知れない。けれども、雨雲一つ浮かんでは來なか＃
つた。＃
「この村に、きつと不信心者がゐるんだ。」＃
「だれだ。」＃
「だれだ。」＃
＜Ｐ－２０２＞
農夫たちは、口々にそんなことをいつた。＃
畠の土が、ぽこぽこに乾ききつてゐる。黄色な土が、すつかり白＃
つぽくなつた。せと物のやうに固くなり、ひびがはいつた。＃
花をつけようとした麥が、そのまま枯れて、見えるかぎりの麥畠＃
は、しらがになつた。＃
たべる物が、だんだんなくなつて來る。大事にしまつておいた＃
倉［くら］の物も、あと、いくらもなくなつてしまつた。＃
「張さん、何か惠んでください。うちの子どもが、うゑてゐます。」＃
張は、自分の二人の息子のことを思ひ、倉には、ほとんど物のない＃
ことも思つた。それでも、張は、倉から麥粉を出して來た。＃
「ありがたうございます。これで、子どもたちは、生き延びませう。」＃
井戸の水も、かれて來る。＃
＜Ｐ－２０３＞
「おとうさん、どこかへ行きませう。」＃
二人の子どもは、かういつてせがんだ。＃
けれども、張はだまつてゐた。＃
「おとうさん、御飯のあるところへ行き＃
ませう。」＃
「――」＃
「おかあさんも、いつしよに行きませう＃
ね。」＃
張は、突然大きな聲でどなつた。＃
「どこへ行かうといふのだ。干ぼしに＃
なつても、ここを離れることはできな＃
い。」　＃
＜Ｐ－２０４＞
　大水　＃
ある年は、雨續きであつた。來る日も、來る日も、ざんざん降つた。＃
「これでは大水だな。」＃
張は、遠くを流れてゐる川の音に、耳をすました。＃
一たび、この川があふれたが最後、ここらあたりは、海のやうにな＃
つてしまふ。畠はもちろんのこと、家でも、土［ど］塀［べい］でも、樹［じゆ］木［もく］でも、廟［べう］で＃
も、みんな水びたしになつて、くづれてしまふのだ。＃
「水には、かなはない。立ちのかう。」＃
張は、夜具をかつぎ、手に麥粉と塩をさげ、妻は、なべや、やくわんや、＃
布ぎれなどを持つた。二人の子どもは、茶わんや、紙や、油や、マッチ＃
を持つた。＃
「もう、こんなところには來ないね。おとうさん。」＃
＜Ｐ－２０５＞
「おとうさん、わたしも、こんなところはいやだよ。」＃
「何をいつてゐる。水さへ引けば、すぐここへもどつて來るのだ。」＃
水を逃げて行く農夫の群が、あちらにも、こちらにも、雨に打たれ＃
て動いてゐた。　　＃
　いなご　＃
「おお、今年こそは豐年だ。」＃
張は、よく實のりかけた麥畠を見渡しながら、「何年ぶりかで、倉が＃
いつぱいになるな。」と思つた。＃
張は、子どもたちと約束した物を、ふと思ひ出した。たこがあつ＃
た。笛があつた。なつめの砂糖づけもあつた。＃
こんなことを思ひながら、地平線を見た。すると、にはかに黒い＃
雲がわいて來た。それが、みるみる近づいて來る。＃
＜Ｐ－２０６＞
雲ではなかつた。＃
「いなごだ、いなごの大群だ。」＃
「おうい、おうい。いなごだぞう。」＃
「いなごだぞう。」＃
農夫たちは、はうきを持つたり、たいまつを持つたりしたまま、う＃
はのそらで、天を見てゐるばかりである。＃
いなごの群は、雨のやうに、ざあつと畠に降つた。作物は、ひとた＃
まりもなく、むざんに食ひ荒されてしまつた。　　＃
　明月　＃
五風十雨、今年は、何とありがたい年であつたらう。粟［あは］も、大豆も、＃
かうりやんも、これ以上實のれないといふほど、ゆたかにみのつた。＃
今日は夜明けから、張の家では、麥刈をやつてゐた。いくら汗が＃
＜Ｐ－２０７＞
流れても、樂しい汗であつた。いくら、腰や腕がつかれても、こころ＃
よいつかれであつた。＃
「これで、もう大丈夫。こんどこそ＃
安心。」＃
長い麥の一うねを刈りあげるたび＃
に、こんなひとりごとをいつた。子＃
どもたちとの約束が、果せると思つ＃
ただけでも、張はうれしくてならな＃
かつた。＃
仲［ちゆう］秋［しう］明月の夕暮である。＃
畠から大きな月が出て來た。＃
庭へ出した机の上に、梨［なし］やぶだうを供へた。＃
＜Ｐ－２０８＞
紅［べに］をつけたお菓子もかざつた。＃
らふそくには、火がともつた。風のない靜かな月の出である。＃
二人の子どもは、笛を合はせて吹いてゐる。＃
張は、しみじみと幸福にひたつた。　　＃
　二　　愛路少年隊　＃
交［かう］通［つう］路は、ちやうど、人間でいへば血［けつ］管［くわん］のやうなものである。も＃
し、血管に少しでもさしさはりがあれば、からだの働きも望めない＃
やうに、交通路に故障が起れば、國の活動は、たちまちとどこほるこ＃
とになる。殊に支那のやうに、廣くて大きな國では、交通路が何よ＃
りも大切である。＃
交通路には、鐵道があり、自動車道路があり、水路があつて、北支那＃
＜Ｐ－２０９＞
だけでも、これらの延長は、約二萬六千キロに＃
もなるといはれる。更に、中支那・南支那のも＃
のを合はせたら、實におびただしい數字にの＃
ぼるであらう。＃
この長い長い交通路を、りつぱに整へ、安全＃
に保［たも］つことができないうちは、支那の活動も、＃
發達も望めない。北支那に愛路村［そん］といふ地［ち］＃
域［ゐき］が設けられたわけも、ここにある。＃
愛路村といふのは、交通路を愛し、これを守る村のことで、道の兩＃
側おのおの十キロ以内のところを、これに當ててゐる。愛路村に＃
住んでゐる青年は、愛路青年隊を組［そ］織［しき］し、女子は婦女隊を組織し、少＃
年たちは、愛路少年隊を組織してゐるのである。＃
＜Ｐ－２１０＞
愛路少年隊には、十一歳から十七歳までの少年がゐて、みんな元＃
氣のよい顏に、國防色の制服を着て、樫［かし］の棒をかつぎながら堂々と＃
行進する。かうした訓練を受けたのち、少年たちは、それぞれの任＃
務を帶びて、受持の場所につく。＃
あれほど廣い支那のことであるから、今でも日本の眞意がわか＃
らないで、いつ心得違ひのらんばう者が、現れないともかぎらない＃
からである。＃
愛路少年隊には、次のやうな美談がある。＃
ある少年が、鐵道のこはれてゐるのを見つけた。急いで本隊に＃
報告しようと思つて走つて行くと、向かふから列車が進んで來る。＃
このままにしておけば、列車は、ひつくりかへるばかりだ。少年は、＃
線路の上に二王立ちになり、持ち合はせてゐた布を振つて、やつと＃
＜Ｐ－２１１＞
列車を少年の寸前で止めた。＃
ある少年は、自動車道路の見張りを受け持つてゐたが、急病で寢＃
込んでしまつた。といつて、その任務は、しばらくも捨てておくこ＃
とができない。＃
そこで、少年の老父が、これに代つて見張りに出かけた。折惡し＃
くあらしになつて來た。＃
がけを曲らうとした時、烈しい風が吹いて來て、父親を深い谷あ＃
ひに落してしまつた。かうして、父親は、少年の身代りとなつた。＃
楊［やう］といふ少年がゐた。ある夜、これも鐵道線路がこはされてゐ＃
るのを發見し、地だんだふんでくやしがつた。かれは、すぐその惡＃
者がどこから來たか、どこへ逃げて行つたか、何名來たか、それらを＃
調べ始めた。惡者といつても、村の良民と違つた着物を着てゐる＃
＜Ｐ－２１２＞
わけでもなければ、ことばが變つてゐるわけでもない。これをさ＃
がし出すのは、非常に困難であり、みんなは、何の手がかりもないこ＃
の調査を、打ち切らうといひ出した。楊少年は、「自分の村に起つた＃
ことだ。どうしてもさがし出さなければならない。」といつて、止め＃
なかつた。＃
ある日の夕方、かれは村の墓地を通つてゐた。すると、そこにか＃
くれてゐたあやしい者が、三人現れた。楊少年は、てつきりこれだ＃
と思つた。急いで報告しようと決心し、いつさんに走り出した。＃
すると、三人もあとを追ひかけた。追ひつけないと思つた一人が、＃
いきなり手投げ爆彈を投げつけた。爆彈は、大きな音をたてて破［は］＃
裂［れつ］し、その破片が、楊少年の肩や背にあたつた。少年は、氣を失つた。＃
惡者たちは、そのままどこかへ姿をかくしてしまつた。＃
＜Ｐ－２１３＞
この物音に驚いて、村の人たちがかけつけてみると、楊少年が倒＃
れてゐる。さつそく病院へかつぎ込んで、みんなで介［かい］抱［はう］したが、そ＃
の夜は、ただ眠り續けてゐるばかりであつた。＃
あくる朝になつて、始めて目をさました。楊少年は、苦しい息の＃
下から、＃
「惡者が三人、あの墓地に――」＃
と叫ぶやうにいつた。さうして、またすやすやと眠りだした。ま＃
もなく、楊少年は、また何かいはうとして口を動かしてゐる。耳を＃
寄せて聞くと、＃
「ニッポン、バンザイ。」＃
といつてゐる。それつきり、少年の息は絶えてしまつた。　　＃
＜Ｐ－２１４＞
　三　　胡［こ］同［どう］風景　＃
北［ぺ］京［きん］の町には、胡同が網の目のやうに＃
通じてゐる。胡同といふのは、小［こう］路［ぢ］のこ＃
とである。＃
どこの家も、高い土［ど］塀［べい］を立てめぐらし＃
てゐるので、小路は、おのづから高い土塀＃
續きになつてゐる。あまり道幅もない＃
兩側の土塀の上から、ゑんじゆの枝や、楊［やなぎ］＃
の木や、ねむの枝などが、ずつと延び出し＃
てゐる。いはば、胡同は一本の管になつて、どこからどこまでも、つ＃
ながつてゐる感じである。＃
＜Ｐ－２１５＞
一見、何の曲もないやうなこの胡同ではあるが、ここに住んでゐ＃
る子どもたちにとつては、かけがへのない樂しい遊び場所であり、＃
大きくなつてからのなつかしい思ひ出となる天地である。＃
冬は冬で、風當りの少ない胡同の廣場に、子どもたちがたむろし＃
て、日だまりを樂しみ、夏は夏で、ひんやりとした土塀の日かげを選＃
んで、風の通り道で遊んでゐる。＃
遊ぶといつても、別におもちやや繪本などを持つて、遊ぶわけで＃
はない。その邊を走つたり、地べたに尻［しり］もちをついて、穴をほつた＃
り、土で團子のやうなものをこしらへたり、遠くの方から響いて來＃
るいろいろな物音に、耳を傾けたりしてゐるのである。＃
物音には、いろいろなものがある。まづ、物賣りが鳴らして來る＃
鳴り物の音がおもしろい。＃
＜Ｐ－２１６＞
床屋が通る。客の腰掛ける朱［しゆ］塗［ぬ］りの椅［い］子［す］や、洗［せん］面［めん］器や、道具を入＃
れた、これも朱塗りの箱を、てんびん棒でかついでやつて來る。片＃
手には、大きな毛拔きのやうなものを持ち、片手には鐵棒をにぎつ＃
てゐて、時々、毛拔きを鐵棒で勢よくしごく。すると、「ビューン。」とあと＃
を引くやうな響きがする。その「ビューン。」がはたと止ると、そこでは、＃
どこかの子どもが、もう頭をつるつるにそられてゐるのである。＃
糸屋が來る。荷車を引きながら、ゆつくり歩いて來る。でんで＃
んだいこのやうな、ブリキのつづみを鳴らしてやつて來る。「チャカ＃
チャン、チャカチャン。」と、輕やかな、はずむやうな音をたてる。すると、ど＃
こからともなく女の人たちが集つて來て、糸屋さんを取り卷く。＃
黄色や、紅白の糸たばがくりひろげられて、しばらくは話がにぎや＃
かに續く。＃
＜Ｐ－２１７＞
いかけ屋が來る。これも、いろいろな道具を入れた荷をかつい＃
でゐる。前の荷の上に、小さなどらをぶらさげておき、その兩側に＃
分［ふん］銅［どう］をつるしておく。歩いて行くと荷が搖れて、自然に分銅がど＃
らに當る。「ボーン。」と、かはいらしい音をたてる。＃
どらにも大小さまざまがあつ＃
て、音色も違ふし、同じ大きさのど＃
らでも、その打ち方によつて音が＃
違ふ。「あの音は、おもちや屋さん＃
だ。」「今のはあめ屋さんだ。」と、それ＃
ぞれすぐわかる。＃
その中で、いちばんさわがしく＃
て、大きな音をたてるのは、猿まはしのどらであらう。「ジャン、ジャン、＃
＜Ｐ－２１８＞
ジャン。」と、激しくたたいておいて、手のひらで、どらを急に押さへる＃
ので、「ジャン、ジャン、ジャッ。」といふやうに聞える。これを聞きつけて、子＃
どもが大勢集る。まるく輪になつたその中で、猿がさまざまな藝［げい］＃
をする。三［さん］國［ごく］志［し］とか、西［さい］遊［いう］記［き］といつた支那の昔物語をやるつもり＃
なのだが、猿は途中で、きよとんとして止めてしまつたり、とんでも＃
ない別のことを演じたりする。それが、見てゐる人にはかへつて＃
おもしろく、笑ひ聲が絶えない。猿まはしは、猿を使つたり、せりふ＃
をいつたり、はやしを入れたりしなければならないので、なかなか＃
いそがしい。＃
子どもの見ものでは、このほかに影繪が＃
ある。日暮れ時の胡同の廣場などに、影繪＃
の舞［ぶ］臺［たい］をこしらへて、そこで人形をあやつ＃
＜Ｐ－２１９＞
る。ほのぼのとした影が搖れながら動く＃
のは、子ども心を引きつけて止まない。思＃
はず夜のふけるのも知らないで、見とれて＃
しまふ。ふと氣がついて、子どもたちは、あ＃
わてて家にもどつて行つたりする。＃
鳴り物を使はないで、呼び聲でやつて來＃
る者もゐる。＃
まんぢゆう屋がさうだ。朝早く大きな聲で叫びながら、ふれ歩＃
いて來る。やつと目がさめたころ、遠いところを通るその聲を聞＃
くのは、夢［ゆめ］の中の聲のやうに思はれる。＃
春は、苗賣りがやつて來る。＃
夏は、金魚賣りがやつて來る。「さあさあ、金魚をお買ひなさい。＃
＜Ｐ－２２０＞
大きな金魚に、小さな金魚。」こんなことをいつて通る。＃
アイスクリーム賣りがやつて來る。「おいしい、おいしいアイス＃
クリーム。にほひも砂糖もおほまけだ。」と歌ふ。＃
秋には、なつめ賣りもやつて來る。ぶだう賣りもやつて來る。＃
たとへ鳴りものであらうと、呼び聲であらうと、管のやうな胡同＃
には、それがふしぎなほどよく響き渡る。＃
このやうに、いろいろな物音が響くが、何といつてもいちばん耳＃
に親しいものは、水を運ぶ一輪車の音であらう。水に不［ふ］便［べん］な北京＃
城内では、一軒［けん］一軒、水を運んで行かなければならない。大きな水［すゐ］＃
槽［さう］をのせた一輪車が、「キリキリ、リリリ。」ときしみながら、かん高い響＃
きをたてる。だから、車の動いてゐる間、絶え間なく「キリキリ、リリ＃
リ。」が響く。夏の日には、この音が涼［りやう］味［み］をさそひ、冬の日は、いかにも＃
＜Ｐ－２２１＞
さむざむとした氣持を起させる。＃
夜の胡同は眞暗なので、それこそ鼻をつままれてもわからない＃
ほどである。それだけに、空が美しい。月が出てゐれば、出てゐた＃
で美しく、星の夜であれば、また更に美しい。青みがかつた明かる＃
い夜空に、南［なん］京［きん］玉のやうな星がばらまかれて、一つ一つが、かがやい＃
てゐる。＃
胡同に面した家々の門には、聯［れん］が書かれてある。めでたい文句＃
であつたり、詩の一節であつた＃
りするが、いづれもりつぱな文＃
字で書かれてある。小さな子＃
どもは、繪も字もわからないこ＃
ろから、この門柱の聯を眺めて＃
＜Ｐ－２２２＞
ゐる。ただ美しいかざりのやうな氣持で眺めてゐる。それが、だ＃
んだん大きくなつて文字であることがわかり、その文字の意味が＃
わかつて來ると、いつそうその聯の美しさが心に刻まれて來る。＃
隣りの家の聯がわかるやうになり、向かふの家の聯もわかるやう＃
になつて行く。＃
正月には、門の戸びらに、眞赤な紙にめでたい文字を書いた春聯＃
が張りつけられる。子どもたちは、その新鮮なかざりに正月氣分＃
を味はふ。＃
春になると、鳩［はと］笛［ぶえ］が天から響いて來て、胡同をにぎははせる。鳩＃
笛といふのは、鳩に笛を結びつけて飛ばすのである。飛ぶと、風を＃
受けてその笛が鳴る。笛には大小があるから、鳩が群になつて飛＃
んで來ると、笛の音がいろいろに鳴つて、それこそ天上の音樂であ＃
＜Ｐ－２２３＞
る。中庭のあんずが咲いて、花びらが胡同へちらちらと降つて來＃
るのも、このころである。＃
楊［やなぎ］のわたが、どこからともなくたくさん舞つて來る。小さな光＃
つたわたが、土塀の片すみにたまる。ふはふはとまるくなつて、風＃
が吹いて來ると、ころころところがり出す。子どもたちは、それを＃
つかまうとして追ひかける。＃
大通を、豚［ぶた］がぞろぞろと歩いて行く。その鳴き聲が胡同に響い＃
て來る。＃
あひるが、「があがあ。」とさわいで行く。＃
花嫁行列のラッパの音が、どこかで響く。子どもたちは、またそち＃
らの方へ走つて行く。＃
胡同は、子どもたちを育ててくれる母のふところのやうなもの＃
＜Ｐ－２２４＞
である。子どもたちは、この中で自然の美しさにひたり、人情の温＃
かさを吸つて、おほらかにのびて行く。　　＃
